時流遡航

《時流遡航》回想の視座から眺める現在と未来(27)(2016,03,15)

(稀代のシャーリング師の逸話)
 全工員数の一割にしかすぎない20人ほどの正規社員の中に、工場の主任を務める竹中さんという天才的な職人さんがいた。この職人さんは、人格的にも、また技能的にも、実に素晴らしい人物であった。当時もう60歳に近い年齢の方だったが、鋼板切断加工を専門とするシャーリング業界では伝説的な存在としてその名を広く知られていた。
シャーリングとは、厚さもサイズも異なる長方形の大型鋼板から、依頼者の提示する発注図面に基づき、大小様々な形状の工業機械部品や工業製品素材の原型などを切り出す作業のことである。この工程を通して切り出される部品の形状は、大中小の三角形、四角形、五角形、六角形、八角形、星形、円形などをはじめとし、実に多種多様であった。
 依頼された形状の部品や素材を鋼板から切り出す作業というと、切断用の専用マシンとその操作技術さえあれば誰にでも容易にできるものだと思われがちだが、実はそんな簡単なものではない。大きくて重く厚い鋼板に特殊なマーカーなどで幾つもの様々な図形を描き、それを特異な大型切断マシンで切り出すわけなのだが、なるべく切断回数を少なくし、しかも、切り屑を最小限に抑え鋼板に無駄が出ないように処理するには、高度な知識と深い経験が不可欠なのだった。場合によっては、異なる複数の発注者からの依頼内容を適宜組み合わせ効率よく切り出す高度なテクニックなども要求されるから、それは、素人の想像などをはるかに超えた難事だったのである。
 もし、そんな作業工程がいまひとつピンとこないようなら、画用紙に大小様々な形の直線構成図形を多数描いて、それらの図形を最小限の切断回数、それも剃刀の刃先で直線状に切る作業を繰り返しながら切り抜く手順を考えてみるといい。画用紙のどこにどんな図形を描き配し、それらをどんな方向からどんな角度でどの点まで切断すれば切る回数が最も少なく、しかも画用紙の無駄がなくてすむかを判断することは極めて難しいことであり、絶対解など存在しない。
ましてや、実際に相手にするのは画用紙などではなく、厚みも面積もさまざな大型鋼板なのであり、直線構成の図形ばかりでなく、折々曲線図形などにも対応を迫られたりもする。切断回数を極力少なくし、無駄になる鋼板部分を最小限に抑え、しかも切断ミスをなるべくなくすのは驚くほどに知的な作業だったのだ。もちろん、そんな高度な作業あってこそ、エネルギーコストや人件費、原材料費が抑制され会社としても利益が得られるというわけだった。
 その伝説の人、竹中さんは、複数の発注図面を目にするとすぐさま頭の中で合理的な図形の配置や切断手順を想定し、信じられないような手際のよさと的確な判断力のもと、配下の工員たちに必要な指示を出していた。実際に切断作業を行う工員たちは、ひたすらその指示に従いさえしておけばよかったのである。数学の世界に多少なりとも縁のあった私は、個人的な興味もあってその竹中さんの作業ぶりを邪魔にならないところから見学させてもらったことがあったのだが、それはもう神業としか言いようのないような驚くべき光景であった。
幾何学的な感覚だけはそれなりにもっていた私だったが、鋼板上における合理的な図形の配列ひとつだけをとっても、この身には到底真似ができそうにはなかった。現在ならコンピュータによる対応処理も可能だろうが、当時はまだそういうわけにはいかなかった。
 会社の正規社員の多くは、日雇いや一時雇用の工員、さらには我々アルバイト夜警らに対して高みから見下すような態度で接していたものだが、この竹中さんだけは誰に対しても同じひとりの人間として優しく対応してくれていた。常人がその超人的な職人業を習得することは容易でなかったにしても、作業現場の主任としての竹中さんは、相手が臨時工員であろうが日雇い工員であろうが、その技術を惜しげもなく公開し、先々一人前の鋼板切断専門工員となれるように懇切な指導も試みていた。我われ夜警に対しても折あるごとにいろいろな経験談をしてくれたり、徹夜での警備仕事の労を温かくねぎらったりしてくれたものだった。
そんな竹中さんには、余人には決して真似のできない絶対的な指導法があった。鋼板切断作業中などにその担当工員が極めて危険な重大ミスを犯したりすると、いつもの穏やかさをかなぐり捨て、すぐさま大声で「そんなことをしたら片手落ちになるぞ!」と怒鳴ったものだった。「片手落ち」という表現は、現在では差別用語として各種の記事や報道などでは自粛されるのが常であるが、竹中さんに限ってはその言葉を使うことが許されてしかるべきだった。
実を言うと、竹中さんには左腕がなかったのだ。まだ若かった工員時代に、シャーリング作業の途中で誤って自らの腕を切断してしまっていたからである。「俺みたいな片手落ちにだけはなるなよ!」という思いを込めて竹中さんが相手を諭していたことは言うまでもない。そして、当然、その諭しの言葉のもつ力は絶大そのものであった。
 平然として自らのことを「片手落ちの身」だと笑い飛ばしながら、あるとき竹中さんは、シャーリング工としての不動の地位を築くまでの苦労譚をしてくれたことがあった。腕を切断したのはまだ二十歳前のことで、命だけは取り留めたものの、さすがにとのときばかりは自らの将来に絶望し、自暴自棄にもなったという。
しかし、ある時期を境に、片手しか使えなくても、徹底的に頭を使うことによって、まずは落とした左腕の分を補うだけの、そしてもし可能ならさらにその分以上の仕事をすることができないものだろうかと思い直すようになったのだという。それからは、猛勉強を続け、着実に様々な工夫と研鑽を積むことによって、稀代のシャーリング師として名を成すまでに至ったのだという話だった。
(知恵の輪を考案し試作する)
 東京シャーリングで夜警のバイトをやるうちに、私はちょっとした余技を実践する機会を得た。子供の頃から知恵の輪の類が大好きだったことに加え、ささやかながら複雑な構造体の本質を極力単純化して考えるトポロジー(位相幾何学)という研究分野を専攻していたので、単に知恵の輪を解くばかりでなく、自ら新たな知恵の輪類を創作することにも関心を持った。大学院生になる頃までには幾つかのアイディアを溜め込んでいたので、それを具現化しようと考えたわけである。幸い、工場には太くて頑丈な鉄線類やそれらを曲げたり切ったりするのに便利な工具類、金属接着用のハンダやハンダ鏝(こて)などが全て揃っており、それらを勝手に使ってよいとの許しも得ていた。
そこで、私は、相当に難解な知恵の輪の試作品を作って手元に残し置き、ずっとのち教鞭を執るようになった際に補助教材としてそれらを用いたりもした。また、悪戯好きな友人から依頼されて知恵の輪を応用したトイレの施錠装置を作成し、笑いを集めたり顰蹙を買ったりしたことなども昔日の懐かしい想い出のひとつである。

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