時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――その実景探訪(18)(2019,06,15)

(標準治療の背景やその立脚基盤を考察する )
 ある事象の構成要素個々のもつ特性を極力重要視する具体的思考と、事象の構成要素個々に共通する平均的特性のほうを重要視する抽象的思考とは本来相補的なものであり、どちらかが絶対的に優先されるべきだというようなものではありません。具体性の度合いが高まるほど個々の要素に特有な性質は明瞭になりますが、そのぶん全体の要素に共通な事象像は漠然としたものになっていきます。逆にまた抽象性の度合いが高まるほどに事象全体の平均像は鮮明なものになっていきますが、それに反比例するかたちで構成要素個々の具体的な性質はどんどん薄れていってしまいます。現実(具体性)を優先するか、それとも理論(抽象性)を優先するかは絶対解のない永遠の課題であって、我われはそれら両者の間のバランスをとりながら時代の歯車を回していくしかありません。時の流れや折々の自然環境・社会環境の変化に影響されて、両者の優先度は常時変動を続けていかざるを得ないからです。現実の変化が理論の修正や発展を促し、理論の修正と発展が現実の変化の展開や制御に影響を及ぼすという状況の連鎖は必然かつ不可欠なものでしょう。この世には絶対不変な現実も永遠不滅な理論も存在などしているはずがありません。
 たとえば医療の世界には標準治療法というものが存在します。標準治療とは、過去において特定の病気に対して実践された様々な医療の結果やその治療に要するコストなどを統計学的に処理し、そのうえで確率論的にみて最も多くの患者に効果的かつ合理的なものであるとして提示されている治療法のことを意味します。標準治療の一環を担うものとして標準治療薬というものもあるわけですが、それもまた、過去の投与における患者の治癒率や薬価の高低などのデータを統計学的に処理し、大多数の患者にとって効果的で費用上も合理的だと判断された薬品のことを意味しているのです。当然、医師たちはそれら標準治療法のことを学び、ほとんどの者がその治療法に基づき諸々の患者に対応するわけなのです。換言すれば、それは、理論、すなわち抽象像の意義を重要視し、その理論を無意識のうちに当然のものとして受け入れ医療行為を実践することにほかなりません。
 ただ、標準治療理論というものは、大多数の患者に対してなされる治療法とその結果として得られる治療効果との間の平均的な関係様態を正規分布(ガウス分布)などに代表される確率関数を基にして導出された論理体系にほかなりません。したがって、その性質上、当然の成り行きとして、一部の患者にはその理論に基づく治療法による効果が現われなかったり、当該治療法そのものが逆に深刻な影響を与え病状の悪化を招いたり、各種副作用に象徴されるような想定外の状況が生じ別の疾患を併発させたりすることが起こり得るわけです。また、極めて治癒効果は高いものの費用があまりに高価すぎて一般患者には選択不可能だったり、さらには開発されたての新治療法だったりするため、標準治療としては認知されていないものもあったりします。そして、その最たる事例が数多くみられるのは、昨今人々の関心を強く惹いてやまない癌治療の分野などなのかもしれません。
 この世の諸々の病というものは、同じ類の病気ひとつをとってみても、患者個々の身体的状況には相当な違いがありますし、その医療環境にも大きな差違が見られるものです。そうなると、抽象度の高い確率論、すなわち統計学的な理論に立脚する標準治療というものは、見方を変えれば、千差万別である患者個々の具体的病状に十分対応するには限界があるということになってきます。そのため、様々な癌の患者などを対象にして標準治療外の療法を採用する医師や、標準治療そのものの意義を疑問視する医師が現われたりもするわけなのです。一般的には冷ややかな視線を浴びがちの特殊な民間療法などが割り込んできたりする余地が生じるのもそのような背景があるからなのでしょう。しかも、標準治療外の対応が効果的であることも少なくないので話はますます厄介なのです。
医療関係の分野などで用いられることの多い「エビデンス」、すなわち「科学的根拠」なるものは、言うまでもなく数理統計学理論などに基づく論理的裏付けがあることを前提としていますから、敢えて分別するならば、それは抽象的概念に属していると考えてもらってよいでしょう。そうだとすると、どうしてもその性質上、個々の患者に特有な要因や様態、すなわち、個別の具体的な病因や病態を完全にカバーできるものとはなりません。「エビデンス」を理論的に立証するためには、実在する少なからぬ捨象するか、あるいは他のものと合わせて平均化せざるを得ないからなのです。ここにもまた常にその支点が変動し続ける具象と抽象のバランス問題が内在しているというわけなのです。
「エビデンス」を絶対視して医療に臨むのか、それをほどほどに評価し多少の問題があることを承知したうえで臨むのか、それとも「エビデンス」はあくまでも参考程度にとどめ、是々非々の主体的なスタンスをとりながら患者に向き合うようにするのかの選択は、医療者各人によって異なるわけで、それぞれに一長一短が伴うことですから絶対的選択肢は存在していません。一方の患者の側も、そのような医療者のうちのいずれを選ぶかによってその後の治療状況や治癒効果がそれなりに違ってはくるわけです。
(医療に「絶対」は存在しない)
 実際、医療現場には標準治療をほぼ絶対視して治療に臨む医師と、自らの多様な経験をもとに標準治療に対して一定の距離をおきながら患者に対応する医師とがあり、場合によってはそんな見解の相違がもとでそれなりの対立が生じることもあるようです。また、刻々と進化を遂げる先端医療技術や医療環境の推移に伴い、標準治療理論を支える正規分布の様態などにも大きな変化が生じてきますから、それらに対応して標準治療法そのものをも変更していかざるを得ないことでしょう。人生百年時代の到来に標準治療概念が大きく貢献していることは紛れもない事実なのでしょうが、だからと言って個々の患者、なかでも重篤な患者の抱える根本的問題が解消されるわけではありません。ましてや高齢者に多く見られるように、その病状に心理的な要因などが深く関係してくるとなると話は容易ではありません。そのような場合には、確率論に基づく標準治療法よりもその時々の患者の具体的な様態に応じた試行錯誤の対応や臨機応変の治療が不可欠となってくるからです。
 また、このような時代には、患者自身も、さらにまた将来的には自らも患者となるであろう健康な人々も、いざというときの対応のすべてを無条件で医療者の判断に委ねるわけにはいかないのでしょう。標準治療概念では測りがたい自らの様々な生活環境や精神的状況を事前に考慮したうえで、主体的な意思をもって受診に臨み、医師に具体的な見解や適切なアドバイスを積極的に求めつつ、医療を受けていく必要があるでしょう。

カテゴリー 時流遡航. Bookmark the permalink.