時流遡航

《時流遡航301》日々諸事遊考 ――しばし随想の赴くままに(61)(2023,05,01)

( 時は流れ、そして人は去る ) 
 去る3月22日の夜のこと、何気なく携帯電話の通話履歴に目をやると一通の不在着信記録の表示が残っていた。着信時刻が同日正午過ぎになっていたその電話は、60年来の親交のある友人からのものだった。ただ、その日は諸々の雑用に追われるあまり、長時間携帯に触れる余裕がなく、夜になるまで着信があったことなど確認できずにいたのである。申し訳なく思いながら、2~3回ほどこちらからコールしてみたが今度は先方からの応答がまったくなかった。もう深夜に近い時刻になってもいたので、それ以上コールすることはやめ、お詫びの一言と明日あらためてこちらから連絡する旨のメールを送り、そのあとちょっとした徹夜仕事に没頭した。床に着いたのは午前7時くらいだったかと思う。
 翌日の午後1時くらいに目覚めた私は、洗願を終え軽い食事を取ったあと、まずは前日の友からの電話への対応をと思い、おもむろに携帯を手に取った。実を言うと、彼には、このところ私が企画運営に参画している教養講座において近々講師を務めてもらうことになっていた。その講座のテーマは一応「歎異抄の親鸞」ということに決まっていたが、電話での打ち合わせの際、「宮沢賢治論にするのもありかな」とも話していたので、そのあたりのことを再確認するための電話ではなかったかと想像しながらのことだった。
 手にした携帯が急に鳴り出し、その友人の名前が表示されたのはその時のことである。「もしもし、僕です。昨日はついつい失礼を」と即座に対応したのだが、相手の声はせず、なおそのまま一瞬の沈黙が漂った。そして、「本田さんですか……美保です」とようやく響いてきたのは、なんと友人の奧様のどこか沈んだ声だった。そして、そのあとに続く短い一言を耳にした私は、絶句したままその場に立ち尽くした。「夫が昨日脳溢血で急逝しました」――それが奥様の口から洩れ出た衝撃的な一言だったからである。自分と同じ傘寿を迎えてはいたが、友の頭脳はなお明晰そのもので、生来の深い洞察力に基づく鋭い論考の数々は少しもその輝きを失うことなく、今もなお社会に多大な貢献を果たしてきた。
 松本零士が去り、大江健三郎が逝き、そして優れた社会・教育・文芸評論家として名を馳せた親友の彼までもが相次いで他界するとは・・・。この令和5年という年は凶年で、日本社会の様相を一大転換させようとして、見えないところで何かしらの不気味な力が働きでもしているのかもしれないという、妄想にも近い思いが湧き上がってきさえもした。
 葬儀は3月29日の10時30分から我孫子市の斎場で近親者とごく限られた関係者のみで行うとのことで、私も参列を許されたが、葬儀が無事終了し一定期間が過ぎるまで、友の死については一切他言しないでほしいとの要請でもあった。終焉期を迎えたとは言えコロナ禍の影響がなお残る状況に加え、著名人であったがための社会的対応の難しさなども伴うことゆえ、それらをご親族で総合的に思慮なさったうえでの判断ではあったのだろう。
(友の足跡とその業績を顧みる)
 葬儀当日、私はささやかな自詠の弔歌を記した色紙を用意し、予想所要時間の2倍ほどの余裕をもったうえで、自ら車のハンドルを握り我孫子市へと向かった。ところが高速道路上で起こった事故のため凄まじい渋滞が発生して2時間近く足留めされ、ようやく斎場に辿り着いたのは葬儀半ばのことだった。一時はもう間に合いそうにないという絶望感に襲われもしただけに、式半ばからとは言え葬儀に参列できたのは不幸中の幸いだった。
 黙したまま柩の中に横たわる友の顔にそっと触れることを許された私は、その頬に震える指先を添えながら「長い間有り難う、そして本当にご苦労様でした」と囁きかけた。そして、「我もまた やがて往くべき彼岸にて 逢はんとぞ願ふ 涙ながらに」という弔歌を記した持参の色紙を一輪の献花と共に柩の中に納めさせてもらった。また最後に火葬場に移り、ご親族の方々と共に遺骨の一部を拾い骨壺の中に納める儀式にも参列したのだが、炎で浄化された個々の骨々が不思議なまでの存在感を放っていたことは実に印象的だった。
 膨大な数の著作を残したその友人の処女作は「宿命と表現」(冬樹社刊)というもので、同書には、若い彼の稀有な才能を見出し、彼もまた生涯の師と仰いだ大思想家吉本隆明による帯書きが付けられていた。その言葉の裏には、暗に「真の表現者としての文筆家の道とは孤独このうえないものだが、私には、君がその厳しい道を未来に向かってひたすら突き進むようにと祈るしかない」というどこか突き放したような師の想いが込められていたのだが、生涯をかけて友は見事にその道行きを実践して見せたのだった。
 若い頃から彼は、「僕は諸々の社会問題について論述する場合には、徹底して弱い者の立場に寄り添って筆を執るつもりだ」と言っていた。そして実際にその信条を生涯にわたって貫徹してみせた。各種の少年犯罪に関する深い論著が数多く残されてもいるが、安易に社会的正義感を振り回すようなことはせず、罪を犯した少年少女らがそこまで追い詰められた心理的背景や個々の生育環境にまで深く分け入り、感服し共感するしかないような見事な考察を進めもした。問題の少年少女らもそれを読めば救われた気持ちになっただろう。
 結構その名が知られるようになってからのことであるが、彼は「僕の著作は精々千人程度の人々に読んでもらえさえすれば十分だ。その人々がぼくの考えを易しく噛み砕き、より多くの人々に伝えてもらうことによって、間接的に社会に貢献できるならそれで構わない。僕は蔭に在って種をまくが、その実りの収穫は他の人に委ねたい」と言った趣旨のことを述べたこともあった。我が家の書架には現代家族論、社会論、教育論、文芸論、作家論など、彼の著作のほぼすべてが並んでいるが、そのいずれにあっても、驚嘆に値するような深くて鋭い論述が展開されている。やはり彼は稀代の異才だったと言うほかない。
 オウム真理教が問題になっていた頃、彼はあるテレビニュース番組にコメンテータとして一度だけ出演したが、以降一切のテレビ出演依頼を断るようになった。映像が編集され自分本来のものとは異なる姿が映し流されているというのがその理由で、即座にその業界から身を引いたのだが、彼の表現活動の流れからすればその判断は正しかったのだろう。
 晩年、彼は独自の「養育論」の研究執筆に心血を注いだ。そして「養育辞典」(明石書店)や最終3部作「芹沢俊介養育を語る 理論篇」(株式会社オフコード研究所)を刊行した。そう、その親友の名は「芹沢俊介」、高校の国語の教科書などにもその一文が収録されている人物である。精神分析学者フロイトや児童精神科医ウイニコットの論考を徹底研究したうえで、人間の成長期における彼独自の感慨深い養育論を展開した。最後に恵贈された著作中に挟み込まれた添え書きには、「本田様 とんでもない時代が来てしまいました。どう生きてよいのやら……。お元気で。 芹沢拝」という胸に迫る一文が書き記されていた。
(合掌)

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