時流遡航

《時流遡航》回想の視座から眺める現在と未来(26)(2016,03,01)

(陰にあって日本の興隆期を支えた人々)
 東京シャーリングの敷地は直接に大きな運河に面していて、ほぼ毎日のようにそこには大型のダルマ船が接岸していた。そこにやってくるダルマ船の役割は、長方形の大型鋼板を大量に積載し、神奈川県川崎市の製鋼工場から江東区深川の東京シャーリングへと搬送することであった。
シャーリングで目的に応じて大小様々な形状に切断加工された鋼材は、大型トラックなどで各地の製品製造工場へと陸路搬出されることが多かったが、一部は積荷の鋼板を降ろしたあとのダルマ船に再積載され東京湾隣接地域の工場へと運ばれたりもしていた。
 ダルマ船にも大・中・小いろいろなタイプがあったが、大型のダルマ船の場合、その船首付近の船倉部には、三、四人くらいならなんとか暮らせる生活空間があって、そこを常住の場にして海運業に励んでいる船頭やその家族なども少なくなかった。当時はそんな特殊な環境下にある水上生活者家族の子息や子女を対象にした、宿泊施設付きの江東区立
水上小学校や水上中学校などが海上に浮かぶ埋め立て地に設置されていたものだ。
 夜警をやっていると、工員らが全員退社した頃合いを見計らって、船頭の奥さんなどがダルマ船の内部へと続く長いホースを引っ張りながら水を貰いにやってきたものだ。もちろん、工場内の水道の蛇口にそのホースの先端を繋ぎ、船内のタンクに生活用水を補給するためである。エンジンを持たないダルマ船は、ごく短い距離なら長い水棹の操作によって移動できるが、川崎と深川間のようなそれなりに遠い距離の移動となると、小型の動力船に曳航されながら動くしかなかった。深川近隣の運河周辺では、接岸地点は幾分違ってもほほ同地域に向かう何隻もダルマ船が、一隻の動力船に曳かれて移動する光景なども折々見られたものである。それらは当時の東京湾沿岸地区の風物詩でもあったのだ。
 そんな訳だから、川崎方面へと向かう曳き船の手配がつくまで、ダルマ船が何日も工場脇に停泊し続けることもよくあった。そしてそんな時など、船頭夫婦らは朝早くや夜遅くに汚れた衣類を沢山抱えて現れ、洗い場でその洗濯を済ませたりもしたものだ。彼らが食料などの生活必需品を買い求めに出向く姿なども折々見かけられたものである。どこか愛想に欠けた見かけの姿とは違って、人生の辛酸を舐め尽くし、またそのゆえにこそ人間同士の助け合いがどんなに大切であるかを深く弁えていた彼らは、親しくなってみると実に心優しい人たちばかりだった。決して豊かではないその生活にも拘らず、我々アルバイトの夜警などに差し入れなどをしてくれることもしばしばだった。
まだ若くて好奇心の旺盛だった私は、懇意になった船頭夫妻にお願いし、ダルマ船の中の生活空間を見学させてもらったこともある。船首部分の小さ目の船倉を特別に仕切って造られたその空間は四畳半弱ほどの広さで、一応その床の上には3枚ほどの畳が敷かれていて、その上に折り畳み式の小さな食卓が配置されていた。船倉の壁面沿いには簡単な炊事道具や衣類、寝具などが積み置かれ、最奥部の上方には小さな神棚が祀られていた。当然のことだが、照明器具は灯油ランプだけだった。乾電池で作動するラジオはあったが、通常の電源など何処にもないのだからテレビジョンなどあろうはずもなかった。
大量の鋼材を駆使した様々な製品工業が発展し、社会全体が徐々に豊かになっていきつつあったその時代、日々の不自由な生活に堪えながらも陰にあって懸命に産業を支えるそんな人々の生活ぶりに、私は胸中深くでなんとも言い難い感動を覚えたものだった。もうそんな水上生活者の姿やダルマ船の頻繁に行き交う光景など見られなくなってしまったが、この現代社会においても、かたちこそ違え、陰にあって華やかな表の世界を地道に支える人々がいまなお数多く存在しているに違いない。当時を回想するにつけても、姿の見えないところで働くそんな人々に感謝したい思いが湧いてくる。国内の経済的発展全般にいささか翳り
が生じてきている今日、いざというときに備えて、我々には少々の厳しい生活環境に遭遇したくらいではへこたれないだけの精神的強さが求められてしかるべきだろう。
(陸送トラック運転手の好意)
 当時の長距離陸送トラック運転手らの労働環境の劣悪悪さも相当なものだった。昔のトラックの性能は現代のものに比べれば格段に劣っていたし、大小の故障が起こるのも日常茶飯事にすぎなかった。しかも、国内の高速道路網が発達する以前のことゆえ、大都市近郊のごく短い区間を除いては、一般国道や都道・県道を走行するしかなかった。加えて、それらの公道も整備や舗装が不十分なままで、狭くて凸凹の地肌が剥き出しのダート路などがほとんどだった。そんな状況のなかで東京シャーリングのような下町の工場に貨物搬送にやってくるトラックの運転手らは、比較的道路が空いていて走りやすい深夜の時間帯に都心部を走行し、午前3時くらいまでには目的地に到着するようにしていた。
 午前3時頃になると、東京シャーリング敷地沿いの路上には到着したトラックが駐停車し、工場の開業時間を待つのはごく普通のことだった。午前3時頃から工場が開く午前8時までの5時間ほどを、運転手らは狭い車中で仮眠をとったりしながら過ごすわけだが、燃料節約や排気ガス抑制のためエンジンを切って待つトラックも多く、厳冬期などはみるからに大変そうであった。ある真冬の午前3時過ぎくらいこと、私は事務所の一部屋を兼用した夜警室をあとにすると、鉄格子の門を少しだけ押し開け工場の外に出た。すると、かなり前に到着していたらしいトラックの運転手が、凍りつくような寒さの車外に出て、懐中電灯を片手に車体の下を覗きながら何やら調整作業をやっているところだった。
 私はしばしその姿を見守ったあと、「よかったら中に入りませんか」と声を掛けた。すると中年のその運転手は一瞬躊躇いを見せた。そこで、「夜警室ではストーブが燃えていて暖かいし、工員用のお風呂の湯もまだ冷めていないからよかったら入浴もできますよ」と促すと、相手は遠慮がちに私のあとについてきた。私は温かいお茶を入れて差し出し、お風呂にも入れてあげた。それからストーブを囲んで2時間ほど談笑したあと、相手はトラックの運転席へと戻っていった。そして、立ち去り間際に、彼は「こんな人間らしい扱いを受けたのは初めてのことです」という短い一言を残した。実を言うと、その時、私は敢えてルール違反をしたのだった。開業時刻の午前8時までは部外者を工場内に入れてはならないというのが基本ルールだったからである。
ただ、そのささやかなルール違反が契機となって、私とその陸送運転士との交流は深まった。彼は工場に来るたびに夜警の我われにお土産を持ってきてくれた。その好意の極めつけは、大阪に向かうトラックの助手席に私を乗せ、途中の奈良まで連れて行ってくれたことでる。旅費を一切かけずに憧れの奈良斑鳩の地を踏むことができたことは、貧乏至極な身とってはこのうえなく有難いことであった。

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