時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――実践的思考法の裏を眺め楽しむ (17)(2020,06,01)

(隠れたブームを呼んでいるカミユ作品を回想する )
 今春来の新型コロナウイルス騒動に伴い、アルベール・カミユの名作「ペスト」が再び衆目を集めるようになってきているそうです。私自身のカミユ作品との出合いについては、2018年6月1日号の本欄で実存主義の問題を取り上げた折にその概要を述べさせてもらったのですが、この際ですから、「不条理の哲学」などとも称されるカミユの思想とその一連の作品の秘め持つ世界観について、今一度少しだけ触れてみようと思います。
 まだ学生だった頃、私が初めて手にしたカミユの作品は、「今日ママンが死んだ」という一文で始まるあの「異邦人」でした。とてつもなく常軌を逸した主人公ムルソーの行動を読み辿るうちに私はその物語の奥深くに引き込まれ、一気にそれを読み終えたものです。それほどまでに魅了されたのは、人間という存在が宿命的に抱えもつ解消不可能な矛盾を必然のものとして受け止め、罪を犯しながらもそれを超え己の意志を貫いて生き抜き、最後は神への懺悔を求める司祭と激しく論争しながら死刑宣告をも甘んじて受け入れる主人公の姿に不思議なまでの共感を覚えたからでした。天蓋孤独の状況に陥っていた当時の自分に次々と襲いかかる無慈悲な運命の荒波に耐え抜くには、如何なる術を身につけるべきかと思い悩み続けていたこともまた、その作品に魅せられた理由だったかもしれません。
不条理な運命に反抗し、そこからの脱却と解放を画策する不屈の精神の存在を説き描こうとしたカミユは、無知無力なるがゆえの諦めや絶望の境地の裏返しとも言える人間の開き直りには、再生にも繋がるしたたかな生命力が秘め隠されていることを見抜いていました。彼はそんな理不尽な人間の姿そのものをも「不条理」という概念をもって捉え、描き出そうとしたようなのです。たまたま「異邦人」を手にし。その作品に深く感銘させられた私は、若さのゆえのエネルギーに導かれるままに、あれこれとカミユ作品を読み漁っていくことになりました。そんななかで印象的だった作品のひとつには、不条理な世界を象徴的に描いた「シジフォスの神話」というエッセイ風の評論がありました。
 シジフォスは古代ギリシャの神話の中に登場する人物で、コリント王国を創建しその国王となったのですが、絶対神ゼウスを欺いたためにその逆鱗に触れ、死後、地獄へと落とされることになりました。そしてそこで彼に科せられた刑罰は、急峻な高山の麓から巨大な岩塊を山頂に向かって押し転がし運び上げるという甚だ凄まじい難行でした。しかも、ただ運び上げるだけならまだましも、苦悶の果てにその岩塊を鋭く切り立つ山頂にまで運び上げた次の瞬間、その岩塊は麓に向かって一気に転がり落ちてしまうので、シジフォスは再び山を降りその岩塊を運び上げなければならなくなってしまったのです。詰まるところ、シジフォスは未来永劫にわたってその刑罰に甘んじざるを得なくなったわけなのでした。その神話の中において、シジフォスはこの世で最も極悪非道な人間の典型ということになっていますから、地獄でそのような過酷な刑罰を背負い、永遠に呻き悶え苦しみ続けるのは当然のことだとされてきたわけなのです。その神話のなかのシジフォスは、ある意味で、この世に生まれ存在し続けていること自体が罪深い行為だとされるなかで、日々答えなき難題を抱えつつ生きる人間の有様を象徴しているのだとも言えるのでしょう。
ところが、カミユは、我われ愚かな人間の姿をさりげなく示唆してもいるそんなシジフォスが、突如その絶望的な無間地獄の苦悶から逃れる方法に目覚めるという、絶妙なストーリーを創作してみせたのです。果てしない業苦の連続にその身を晒すうちに、ある日突然シジフォスは、「山頂から岩塊が転がり落ちたあと、再び麓まで下っていく間だけは自由の身にほかならない」ということに気付いたのだというのです。むろんカミユには、そのストーリーを提示するに際して、シジフォスの犯した過去の悪業の全てを必然のものだとして肯定するつもりはなかったのでしょう。しかしカミユは、絶対神ゼウスにもまた盲点があったことを鋭く突くこの寓話によって、孤独・不安・絶望を不可避と知りながらもなお健気に生に立ち向かおうとする人間の姿を是認する「実存主義哲学」の新たな地平を切り開こうとしたのでした。高校進学時までに肉親の全てを失い、先の見えない人生を背負いながらひたすら苦渋を重ねていた私にとって、ある意味、この話の展開は衝撃的なものでした。その後の人生に向き合うための知恵と術(すべ)とを思いがけなくも示唆してもらったような気分にもなったからなのです。「寝るは極楽、起きるは地獄」という生前の祖父の呟きを想い出し、あらためてその言葉の意味を噛み締めたのもそんな折でした。
(社会的不条理を描く「ペスト」)
「異邦人」や「シジフォスの神話」はその主人公であるムルソーやシジフォス個人の身に降りかかる数々の不条理な問題や、それに対峙する彼らの姿を描いた著作なのですが、いま静かなブームを呼んでいる「ペスト」のほうは、各種の階層の多様な人間が交錯する社会の不条理を描き出した作品です。アルジェリアの城郭都市オランを舞台にし、そこで起こったペストの大流行下における生死を賭けた複雑な人間模様を描写したフィクションの小説ですが、リアリティに満ち満ちており、新型コロナウイルスの流行によって大混乱に陥っている現在の世相を重ね見るにはまたとない作品です。その意味では極めて時宜を得た著作であり、出版不況をものともせず再ブレークしているのも当然だと思われます。
 「ペスト」のなかで描かれた究極の生死の場に見る人間模様は極めて多面的なものであり、人それぞれに多様な解釈が可能なのですが、むろんそれは当初からカミユが意図したことだったのでしょう。ペストの流行によって城郭都市内に封鎖された住人らは、それまで見せていた日常の姿とはまるで異なる本心剥き出しの姿を露呈するようになっていきます。立派な言動を見せていた人物が最も醜く卑怯な行動を取るようになったり、永遠の愛を誓っていた筈の男女が自らの命惜しさに相手を見捨てる場面などが登場したりもします。逆に世間からならず者や無能者として蔑視されていた人間が、病魔に追い詰められ怯え苦悶する人々救済のために身を捨てて尽くす姿なども描かれています。また立場や職業の異なる人々が苦境の中で人間の本質に目覚め、個々の利害や主義主張を超えて互いに連携し合い命懸けでペストに立ち向かう姿も登場します。新型コロナウイルスと闘う昨今の我われにとって、「ペスト」という作品が教示してくれるものは確かに少なくはありません。  
なお、ちなみに述べておきますと、私がカミユ思想の根源に迫るべくして愛読したのは、「太陽の賛歌」と「反抗の論理」という新潮社刊行の2冊の本でした。それらの冊子は、カミユが折々の思索を手記として書き留めていた内容を書籍化したもので、彼が諸作品の執筆に先立って廻らせていた切実な思いを心から学び偲ぶことができもしました。

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