時流遡航

第46回 原子力発電所問題の根底を探る(12)(2012,09,15)

福島県の放射能汚染地域の除染に伴って生じる汚染物質の最終処分場候補地に鹿児島県の南大隅町の名が浮上してきた。脱水焼却し濃縮された汚染物質を福島県内に設置される予定の中間処理施設に一定期間保管し、最終的にはそれらをガラスで固めてスチール缶に詰め、最終処分地候補の南大隅町の地中深くに半永久的に貯蔵し続けようというのである。昨今の原子力行政の窮状を冷静に見据えたうえでの一つの提案には違いないのだが、そのことが報道されると、すぐさま周辺自治体は反対の意思を表示し始めた。もしもこの話が進展を見せるようなら、南大隅町に対しては適切な国家的支援と全国民の深い謝意や評価が寄せられてしかるべきだろう。

この種の話が持ち上がるとすぐに、当該自治体などに対しては、地域の安全を無視した財政優先の発想だという批判が生じるのも常なのだが、気持ちはわかるにしても、もうそのような異論ばかりを唱えておられるような状況ではなくなってきている。批判をするなら、責任ある代替案を策定したうえでことに臨むべきだろう。また、反対の意思表明をしている住民や周辺自治体に対して、関係当局は、放射性物質を封入したスチール缶の地中埋蔵保管処理がその周辺地域を直接には放射能汚染することにはならないことを、繰り返し科学的に立証説明するべきである。一連の事態により原子力関係の科学者が信用を失ってしまった現在、説得は容易でなかろうが、最早その困難を回避するわけにはいかない。

(脱原発実現に不可欠な諸要件)

今後国内原発の廃炉を順次進めていくに際し、使用済み核燃料や高濃度放射性廃棄物の最終処分場設置が不可欠となるが、その候補地の選定はより一層急を要する問題だろう。絶対的安全論のみを金科玉条のごとく振り回す非現実で無責任な主張は自制し、全国民が協力し合って最終処分地を策定しなければならない。最小限の負のリスクは皆で分担し合う覚悟と見識が必要なのだ。煽動的な報道に偏りがちなマスメディアなどは特に、将来的な見地に立ち、それらの点に十分かつ冷静な配慮を加えたうえで原発問題を論じ、国民をリードしてもらいたい。

最近ようやく行政当局も使用済み核燃料を直接埋め込む最終処分場建設の緊急性を認識するようになり、必要な法的整備に着手したようである。最終処分地未定の状態が続き、諸原発の使用済み核燃料保管庫で不慮の事態が発生したら、日本全体に致命的な影響が及ぼう。その場合に国民の被る社会的ダメージは、数千年から数万年後に最終処分場周辺に生じるかもしれない僅かなリスクに比べて遥かに甚大なものとなってしまう。

完全廃炉の実施を含めた今後の原発問題への対処においていまひとつ忘れてならないのは、原子力分野が専門の優秀な研究者や技術者の確保である。メルトダウンを起こし、現段階ではその廃炉工程のビジョンさえも描くことができないでいる福島第一原発の最終的安全処理には無論のこと、他の原発の廃炉に際しても、その任務に当たる原子力工学や核物理学関係の専門家の存在は不可欠だ。だが、原子力に対する批判の厳しい昨今の社会状況を反映し、大学の原子力工学や核エネルギー工学分野に進む学生が激減することは目に見えている。そうなると国内においては将来原子力関係の研究者や技術者が枯渇する事態が生じ、原発の廃炉処理や使用済み核燃料の管理・廃棄処理そのものができなくなってしまうのだ。あと30年もすれば、現在の中枢的な研究者や技術者は皆年老いて一線から身を引いてしまう。それに替わる若手人材がいなくなるとすれば事は重大なのである。

そのような事情は原子炉の直接的な保守作業や使用済み核燃料の実処理に当たる労働者に関しても同じである。原発現場の労働者における被曝放射線量データ管理の不正処理が問題になっているが、その背景に危険な保守作業を担当する経験豊かな労働者が不足している実情が隠されていることを忘れてはならない。20年前に筆者が大飯原発の原子炉保守作業を担当する下請け作業労働者を取材した時点でも、既にその問題の存在が指摘されていた。華やかだった経済成長期以降の日本繁栄の一端が、そういった原発下請け労働者らの被曝線量基準オーバー覚悟の作業、さらにはその実態に敢えて目を瞑ってきた電力会社や関係行政当局のエネルギー優先の施策とによって支えられてきたのは事実なのである。

(原子力の専門家は将来も必要)

昨今の世論の流れに逆らうことにはなるのだが、ここでひとつだけ逆説的な見解を述べさせてもらわなければならない。原子炉を廃炉にするに際して先々原発の専門家の枯渇が懸念されると書いたけれども、将来的に必要なその種の専門家を一定数確保していくためには、必要最小限の原発を今後も当分は稼働させていかなければならない。他のシステムとは異なり操作や管理に高度なリスクの伴う原発に関しては、廃炉に当たる技術者に話を限っても、その人材育成のためには、当面、実稼働する原発の存在が不可欠だからなのである。原発廃炉のためにも最小限の原発がなお必要だというこのパラドックスこそは、一筋縄ではいかないこの問題の深刻さを何よりもよく物語っていると言える。

意外なことを提唱するようだが、大学の原子力工学や核エネルギー工学分野に対しては、このような時だからこそ、能力的にも人格的にも優れた人材を育成することが求められるべきだろう。全国からその分野の研究に意欲をもつ優秀な学生を集めるために、特別な奨学制度を設けるくらいの発想があってもよい。欧州において国際的な共同研究の進む安全な核融合炉の開発においても、日本が世界をリードする先端光科学研究施設での各種研究開発においても、原子力工学や核エネルギー分野の専門知識を持つ研究者や技術者は今後一層重要な存在となってくるからだ。

福島の原発事故にも拘らずアジアや中東諸国では原発建設が促進され、優秀な日本の技術者が高給で引き抜かれる事態も生じているから、今後国内の技術者不足は深刻になるだろう。将来国外で原発事故が起こったり、廃炉に伴う緊急事態が生じたりした時、即刻それに対処し日本への影響を防ぐためには、原子力の研究者や技術者を常時一定数確保しておかなければならない。長期にわたる慎重な試行錯誤の対処が必要な福島第一原発の廃炉処理から得られる諸技術は、先々国際的にも重要な意味を持つことになるだろう。福島の悲惨な原発事故処理を通じて得られる知見を公表し、今後の世界の安全のために貢献するくらいのことは考えていくべきだろう。原発反対の世論の高まりはわかるが、ヒステリックになって過剰なまでに原子力の研究者や技術者を排斥することは誤りだと言わざるを得ない。批判が有意であるためにはその代替策の並行提示が必要不可欠なのである。

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