時流遡航

《時流遡航》回想の視座から眺める現在と未来(14)(2015,09,01)

(穏やかな義父が心中深くに秘めた傷)
北海道各地の広大な高原や平野部は今でこそ緑豊かな酪農地帯に変わっているが、当時パイロット・ファームなどと呼ばれていた草創期の開拓牧場で働く人々の生活は困窮を極めていた。あちこちのファームで一家夜逃げが頻繁に起こったりするほどにその暮らしぶりは悲惨なものだった。義父はそんな貧困家庭の女の子たちを優先的に国家公務員共済会保養所大鵬荘の従業員として雇い、親身になって育て上げた。夜学に通わせたり通信教育を受けさせたりして彼女たちにはそれなりのことを学ばせ、結婚や転職を契機に大鵬荘を去っていく場合でも、あれこれと世話を焼いてやっていた。また、彼女たちが巣立っていったあとも、事あるごとに何かと相談に乗ったり面倒をみたりもしていたようである。
 義父はよく従業員の女の子たちの実家に近況報告方々挨拶に出向いたりもしたものだった。そんな折などに随行してみると、その訪問先は、牛熊原野(実際そんな地名があった)何番地などといったような、遠く人里を離れたなんとも辺鄙な場所だったりもした。一帯がタンポポの黄一色に覆われる初夏などの景観は、旅人の目には素晴らしいものに映りもしたが、飼われている牛の数が少ないことや、厳冬期の根釧原野の凄まじい自然環境などを考えると、実情に疎いこの身にもその生活の過酷さは容易に想像がつきもした。
 あるとき義父は、何を思ったのか、自分が悪性の癌などのような死につながる病にかかった時には必ずそのことを告知してくれるようにと言った。それからずっとのちのことになるが、静岡県伊東市に移って余生を送っていた義父は、耳下腺に異常をきたし、東京の駒込病院に入院した。専門医による詳細な検査の結果、異常の原因は悪性の耳下腺癌と判明、転移の疑いもあることが明らかになった。それとなく状況を察した義父は医者や義母や家内らに病状について本当のところを告げてくれるようにと執拗に迫ったが、誰もが、たいしたことはありませんよと笑ってはその場凌ぎの対応に終始していた。
 何度かの見舞いの際に、たまたま義父と私とが二人だけになることがあった。義父はまるでその機会を待ち構えていたかのように私の顔を見つめ、単刀直入に病名と客観的な病状とを訊ねてきた。「悪性の癌などにかかった時には必ずそのことを告知してくれるように」という義父の言葉を想い出だした私は、もうこれ以上嘘はつけないと観念した。鋭い義父の視線もまた、それ以外の選択をすることを許してはくれそうになかった。私は率直に「かなり悪性の癌です」と伝えたのだった。あえて「かなり」という一語を冠したのは戸惑い揺らぐ己の心の証そのものにほかならなかった。
 義父は私の言葉に黙って頷いた。あきらかにすべてを悟った表情であった。それからほどなく、義父に病名を告知したことを義母や妻らに正直に伝えたが、幸い誰からもその行為を責められるようなことはなかった。それから一ヶ月ほどして、義父は、心身のすべてを覆う深い痛みから解き放たれるように静かに冥界へと旅立っていった。
 義父の他界から随分と時を経たのちのこと、私は執筆原稿関連の取材を兼ねて北海道各地を独り旅する機会があった。そしてその折、久々に弟子屈町屈斜路湖畔の和琴半島を訪ねた。全体の形が和琴の形に似ているためにその名があるこの小さな半島のなかほどには、何時でも誰でも自由に入浴可能な露天風呂がある。湖畔に面したかなり大きな天然の温泉で、熱いくらいのお湯がこんこんと湧き出ており、しかも入浴料は無料ときている。深夜の星空でも眺めながらこの露天風呂に入って、誰にも気兼ねすることなくゆっくりと遠い日の想いに浸ることにしようかという魂胆だった。
和琴半島に着いたのは午前零時頃だったが、その露天風呂には地元の人らしい先客が一人いるだけだった。手早く服を脱ぎ、自然の岩を組んでできた湯船の中に飛び込むと、心地よい底の砂地にどっかりと尻をすえ、四股をいっぱいにのばして目を瞑った。すぐそばの湖畔の渚から時折かすかな水音が響いてくるくらいで、あたりは静寂そのものだった。しばらくして先客が立ち去ると、広い露天風呂は文字通り私の占有物と化した。湯船の中から遥かに見上げる夜空では、白鳥が悠然と銀河の流れの中を羽ばたき、その銀河をはさんで佇む織姫と牽牛とは、永遠に叶わぬ恋と知ってか知らでか、互いに青い光を放ちながらいつまでも瞬き呼び交わし合っているのだった。
(日本陸軍の中国での残虐行為)
 そんな静寂の直中にあって想うべきことは、本来なら他にあってしかるべきはずだった。だが、なんと、その時私が想い浮かべたのは、死ぬまで義父が心の奥底に負い続けたこのうえなく深い傷のことなのであった。義父が生前私にその話をしてくれたことの真意についてはいまひとつ確信は持てなかったが、自らが大陸の戦場で体験した凄惨かつ愚かな行為を後世に語り伝えておく必要があると考えていたことだけは間違いなかった。
 義父の話によると、中国を侵略した日本陸軍は、地理不案内な地域へ作戦部隊を進めるときには必ず現地の民間人を呼んで道案内をさせていた。当時の陸軍所有の地図はいずれもが不完全なもので、それに頼り切るわけにはいかなかったからだという。そして、地元民に道案内させている最中は専ら彼らとにこやかに談笑し、食糧を分け与えたり煙草をすすめたりしていたが、いったん用済みとなると直ちにその場で射殺した。むろん、それは軍上層部からの至上命令で、その処理が終わると、当然のようにまた別の案内人を呼び、事が済み次第同様に射殺するという行為を繰り返しながら進軍を重ねていったのだという。
 中国人捕虜の扱いも正気の沙汰とは思えないものだったらしい。兵站が不十分であった日本軍には人的にも物的にも中国人捕虜を養うだけの余裕はなかった。そのため、陸軍司令部は国際法違反を承知で各部隊に捕虜を割り当て、処刑させるという手段をとった。各部隊は割り当てられた捕虜を軍用犬の訓練や初年兵の軍事教練のために用いたという。
 後ろ手に縛って自由を奪い、獰猛な軍用犬に襲いかからせようとすると、死を覚悟した無抵抗の中国人捕虜たちは恐ろしい眼で犬どもを睨みすえた。そのあまりに凄まじい形相に怯えをなして、さしもの軍用犬も後ずさりする有り様だったらしい。そんな時、現場を指揮する将校たちは軍刀で捕虜の耳や鼻をそぎ、それを犬に食わせて血の味を覚えさせてから襲いかからせたのだという。その凄惨な様子を見ていた義父は、犬にそうやって襲わせ殺すよりはひと思いに殺してしまったほうが彼らのためだと考え、自分の部隊に割り当てられた捕虜は軍刀で切り殺したものだと辛そうに話してくれた。義父はまた、徴兵召集されて自分の指揮下に入った民間人の部隊員などにはそんな蛮行をさせたくなかったので、自らが斬首処理を行い全責任を負うようにしていたという。義父の話はさらに続いた。

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