時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――その実景探訪(7)(2019,01,01)

(自然科学の法則と人間原理との関係を考える)
 そもそも、地球をはじめとする太陽系の諸惑星というものは、厳密な基準で測定するなら常に一定不変の状態で太陽を周回しているわけではありません。地球の場合にみるように、周回軌道上の各点における運動速度の相違や公転軌道の微妙な時間的変化、歳差運動と呼ばれる独楽の首振り運動にも似た自転軸の揺れ動きなど、諸惑星の動きにはそれぞれに特有な斑(むら)があるのです。しかも、何億年単位の時間尺度で考えるならば、諸惑星は太陽に徐々に近づくか、逆に徐々に遠ざかるかのどちらかだとも言われています。
ある意味で敬虔なクリスチャンでもあったアイザック・ニュートンなどは、惑星の運動などには神が定めた絶対的法則が存在しており、それを発見し、さらにはその超越的な機能を解明し後世に伝え残しおくことこそが自然科学者の使命だとも考えていたようなのです。ニュートン的な観点に立てば、この世界には人間の行為や思考などには一切関係なくはたらく規則、すなわち「客観的な法則」なるものが存在しているということになります。我われが日常的に見聞きする様々な法則類の多くもそのような客観的存在だと説き教えられるとすれば、誰もがその通りだと信じてしまうのもやむを得ないことでしょう。
しかし、そんな惑星の運動様態ひとつを考えてみても、そこに規則性があるかどうかの判断は、それを検証するための時間空間の認識尺度のとりかたや、極度に巨視的な観点に立つか逆に極度に微視的な観点に立つかによって大きく異なってくるのです。銀河系の直径レベルの距離を我われが慣れ親しんでいる1メートルくらいの長さに認識し、1万年を1秒くらいの時間に認識する知性があったとすれば、認知の対象にさえなりはしない太陽系の惑星の運動などに規則性や法則性を見出すことなどないでしょう。またその反対に、我われとって馴染みの1ミリメートルくらいの長さを1万キロメートルほどの距離に認識し、1秒を1億年くらいの時間に認識する知性があるとすれば、その基準からしてみると不規則そのものの動きをする惑星の動きなどに法則性を感じ取るはずもありません。
我われが太陽系諸惑星の動きに規則性を読み取るのは、時間空間についての人間の認識尺度が惑星の運動様態から規則性を読み取るのにたまたま適しているからだと言ってよいでしょう。しかも、その人間自身にとってさえも、認識尺度や視点のとりかたの相違によっては、惑星の運動には規則性があるとも規則性がないとも感じられることになってしまうのです。ご存知のように、昔は地球の自転や公転に起因する諸天体の動きをもとに1年の長さやその基準となる時間を定めていました。ところが、我われの科学的認識能力の高まった現在では、そのほうがはるかに規則性が高く誤差も少なく見える特殊な原子の振動などをもとに時間を定めていることは、一連の展開を象徴するものだと考えてよいでしょう。現代人が獲得した厳密な尺度基準や視点に立つならば、最早地球の自転や公転の運動は決して規則的ではないからなのです。
そうしてみると、惑星運動をはじめとする諸々の自然現象やそれに伴う各種の運動様態には法則性があるともないとも言えることになるのです。そこに法則性があると感じるのは人間に代表されるような認識する主体の働きかけがあるからで、認識する主体から完全に分離独立した絶対法則が存在するとするのは適切な見方ではないでしょう。客観的とされる様々な自然科学の法則にも人間の認識に基づく判断、すなわち「主観」が潜在してしまっているのです。自然科学の研究にとって数の概念や諸々の単位が不可欠であることは既に述べた通りですが、それらの定義や創出には人間の主体的思考(人間原理)、すなわち「主観」が関係せざるを得ないという事実などはそれを如実に物語っているわけなのです。
ただ、だからと言って、通常用いられている意味での様々な主観的見解をやむを得ないものとして全面肯定すればよいというものでもないのですが……。アメリカの一部の州などには、未だに進化論を全面否定したり、「地球は平らだ」と信じたりしてやまない人々がいるそうですが、極端なキリスト教福音派の教えに忠実なその種の思考や信念はやはり問題ではあるのでしょう。信教の自由が保障された社会にあっては、そのような風潮を責めるわけにはいきませんけれども……。また、その一方では、現在我われが信頼を置いている数々の自然科学の知識や法則なども、ずっと後世の人々の目から見たら信頼に値しないものになってしまうかもしれないことも自覚しておくべきなのでしょう。いずれにしても、自らを含めて人間というものは何とも厄介な存在ではあるのです。
(絶対的な真理を求めてみるも)
 不可解な出来事や矛盾に満ちみちた世界を生きる人間というものは、自らの能力の限界を痛感されられるがゆえに、そんな自己存在とは無縁な絶対真理なるものを求めがちなものです。そしてそれが不変の科学的原理や法則とされるものであったり、宗教的な真理とされる教義であったりするわけです。絶対的真理を求めようとする者からすれば当然至極なものに見える原理や真理も、他者から、さらには時代を経たのちの観点からすれば誤っているばかりか異様にさえ思われることも少なくありません。しかし、心的な拠り所として自ら求めた真理に身を委ねようとする者にとっては、それが適切なものであるか否かは問題ではなくなってしまうのです。重要なのは、主観的思念にも、また主観が潜在しているにも拘らず表向きには主観とは無縁に見える客観思念にも、それぞれに程度の深浅が存在しているという事実です。我われはそのような状況を十分に自覚したうえで、認識する主体としての宿命を背負いながら、刻々と変容する時代の流れに臨むしかないのでしょう。
 ニュートリノの研究で名高いカミオカンデ、アインシュタインが予言した重力波の確認検証で知られるLIGO施設、ハワイや南アメリカに設置され大きな業績をあげている高性能電波望遠鏡の数々、火星や小惑星の探査機、国際宇宙ステーション――それら様々な宇宙科学探究システムを通じて、人類はビッグ・バンから138億年前後とも言われる宇宙の姿を解明し続けてきました。また、相対性理論や量子力学理論の発展と深化に伴い、超極微の世界から膨張を続ける大宇宙の果てまでを認識の対象とし、それに基づく考究を広げ深めながら現代科学を急速に進展させてきました。
人類史を飾るそれら一連の壮大なプロジェクトは、未知の世界への我われの夢を大きく膨らませるとともに、誰の目にも客観的そのもので人知など永遠に及ぶべくもない無窮の存在を提示してくれました。しかしながら、空間や時間の概念に立脚するそれらの認識というものは、飽く迄も人間原理にのっとったものにほかならないです。如何にささやかだろうとも認識する主体が存在しなければ、壮大華麗な宇宙といえども単なる無へと帰してしまいます。

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