時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――その概観考察(16)(2018,08,15)

(「具象」と「抽象」――理論形成の過程を考える)
 先に述べたルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの言葉にもあるように、変遷する時代や思想の流れのなかにあって、何の支えにも頼ることなく自力で立ち続けつつ、生の旅路をひたすら歩み進むことはけっして容易ではありません。そんな道行を実践するためには、カミユが説いた「生の不条理」に起因する「精神の孤独」に耐え抜く覚悟さえも必要になってくることでしょう。しかも、人間社会という名の、絶え間ない川の流れの直中にあって自らの足でしっかりと立ち続けるには、常にその流れに抗(あらが)いながら一定の足場を踏み固めることは重要ですが、何時までもその場所に留まっているだけでは十分でありません。
もちろん、時と場合によっては安易に足元を掬われないように時流に立ち向かい、不動の姿勢をとりながら、同じ地点にしっかりと佇み続けることも必要でしょう。しかし、真の意味での独立歩行を実現するには、時の川を遡上しながら源流の景観の再認識に努めることも、逆にまた、流れに沿って下りながらも、両足先で着実に川床を踏みしめつつ眼前に広がる新たな風景を眺めやることも肝要となるはずなのです。なお、大局的に見れば誰しもが新たな展開を求めて流れの進む方向へと歩み下ることにはなるのですが、一時的にはそれがどんなに楽なことであるとしても、周辺の景色の変化も一切目にしないまま、時代の潮流に弄ばれることだけは避けるようにしなければならないでしょう。
 ところで、そんな時代の流れを構成しその方向づけをおこなう主要な要因となるものは、この世の中に満ち溢れる数々の「理論」にほかなりません。8枚の子葉を持つ八手の葉というものは現実には存在していないらしい――そんな事実を偶々知った自己体験談を披露し、それをもとに理論というもの本質を比喩的に述べてもみたのですが、この際ですから、しばらくはその問題をより深く掘り下げてみることにしましょう。なお、誤解のないようにあらかじめお断りしておきますが、この一連の論考を通して理論の意義を否定する意図などは毛頭ありません。微力ながらも過去様々な理論的考察に関わってはきた身でありますから、社会におけるそれらの存在意義は十分に理解しているつもりです。
ここで私が指摘したいのは、理論というものの成立背景やその有意性と限界性とを極力認識したうえでその活用を図るべきだということなのであって、それらが無意味だと述べたいわけではありません。この世界には絶対不変の理論など存在していないのです。諸々の日常言語や特殊な記号言語を用いて構築された理論というものは、たとえそれがどんなに優れたものであっても、人間界におけるひとつのツールにほかなりませんから、時の経過と社会の変遷に伴い古びたり機能不全に陥ったりすることは避けられないでしょう。
 世の片隅にあってささやかに生きる老齢のこの身が、半ば開き直りながら好き勝手に理論の世界の舞台裏を覗き見することにどれだけの意味があるのかは分かりません。しかし、ここはあくまで「哲学の脇道遊行」という課題を実践すべく、物見遊山の精神を露わにしながら、論理思考の背景へといま一歩だけ踏み込んでみることにしたいと思います。
(具体像と抽象像の対照的関係)
 今更述べるまでもないことですが、各種理論の構成過程には、「具象」と「抽象」という対照的概念の間にどう折り合いをつけるかという問題が存在しています。端的に言えば、人間社会というものは、古来、万事において「具象」と「抽象」の両概念の間を右往左往し続けてきたと述べても過言ではないのかもしれません。話の核心を解り易く説明するために、SF紛いの譬話に問題を託しながら徐々にその本質を考えていくことにしましょう。
 ある時、エイリアン(地球外知的生命体)の一団が地球に飛来し、我われ人類の生態研究を始めたとしてみます。そして、ある地域で生きる千人ほどの人類をその研究対象に選んだとしてみましょう。当然、彼らは、その研究を進めるに当たって、人類という生命体の定義、換言するなら、「人類なるものの概念の設定」をしなければなりません。
ただ、高々千人ほどの人類がその対象であったとしても、現実には老若男女の違い、体型や服装の相違、さらには十人十色の行動特性の差違などがありますから、個々の存在の特性、すなわち、その個別の具体像(具象)に拘る限りその定義や概念の設定をおこなうことはまず不可能なことでしょう。そこで彼らは、我われ人類の目から見たときのその適否のほどはともかく、彼らなりの認知能力や認識様態に基づいて何かしらの人類についての概念形成をしなければならなくなります。当然、その場合には、彼らエイリアンなりの統計学(むろん、我われのものとはまるで異なる統計学)処理に基づいて人類の平均像、すなわち抽象像(「理論」と考えてもらってもよい)が構築されることになるでしょう。
しかしながら、その抽象像(平均像)は考察の対象となった千人の人類の生態を漠然とは捉えているとしても、千人個々の多様な実生態像を詳細かつ的確に把握するにはほとんど役に立ちません。しかも、ことによったら、その考察対象の中にたまたま野猿類や家畜が紛れ込んでいる可能性だって捨てきれません。当初からエイリアンらが人類と野猿や家畜類を識別できるとは思われませんから、その抽象像には、人類にとってはその相違が一目瞭然なはずの他の動物などの要素も含まれてしまうことになると推測されます。
ただ、だからと言って、そんな抽象像がなかったら、エイリアンらは人類というものについて議論を展開し、その生態の考察を深めたりすることはできません。たとえエイリアン語(それも音声言語や記号言語とは限られませんが)によるものであったとしても、彼らの間に「人類についての何かしらの共通した抽象像」が存在しなければ、生態研究など進むはずもありません。したがって、その「抽象像」が個々の人類の具体像とは異なっていても、彼らの視点や認識基準からして、人類の概観、すなわち平均的全体像を捉えているとするならば、それはその人類生態研究に十分に意味を持つことになるのです。
 我われ人類が自身の生態像を考究するような場合には、四股の機能やその形態、目鼻立ち、行動パターン、食性などに基づく人類の定義がなされることでしょう。ところが、人類とは認識様態も知覚能力もまるで異なるエイリアンが人類の抽象像の形成を試みるときには、我われには想像できないような基準によって抽象化が進められるかもしれません。極論すれば、エイリアンらは、人類とある一群の植物とを同類に属する別種と判断することだって起こり得るわけです。我われには滑稽そのものの話なのですが、エイリアンには人知を超えた何かが見えている可能性もあるのです。さらにまた、何千年後かに(異次元界時間では何年後かに)再飛来し、人類の生態研究を進めようとした彼らは、人類の大変貌を前にして根底からその抽象像、すなわち生態理論の再構築を迫られることでしょう。

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