時流遡航

《時流遡航276》日々諸事遊考 (36)(2022,04,15)

(フェイクニュースや情報操作だらけの時代にあって)
 自らを含めて人間というものはつくづく厄介な存在だと思います。己の存在を脅かす大小様々な不安や、尽きることのない諸々の社会的軋轢に堪えながら、人それぞれが向き合う千差万別な人生行路を歩み通すには、時にそれなりの嘘もつかなければなりません。また状況次第では、正義や倫理に反する振舞にも身を委ねるというしたたかな対応も取らなければならないでしょう。どんなに立派な人生を歩んだと称賛される人物であっても、ひとかけらの嘘もつかず、また、たった一度の非倫理的行為さえもせずにその生涯を貫き通すことなどできるはずがないのです。そもそも、生々流転が常であるこの世にあっては、絶対不変の社会的真理や正義なるものが存在するなど不可能なことに違いありません。
もちろん、特定の宗教的教義やその教祖などに深く傾倒する熱烈な信者、さらにはある主義主張やその提唱者を絶対的に崇拝する者などが多々存在するのは、相互依存性が必然の人類の資質からして不可避なことゆえ、その実状を責めるわけにはいきません。ただ、だからと言って、その種の宗教指導者や主義主張の提唱者らが何の瑕疵もない人物で、彼らの教えや主張には何の偽りも誤りもないなどと考えるわけにはいかないでしょう。敢えて逆説的な見方をするならば、ある種の宗教や政治思想などに民衆を帰依傾倒させる行為とは、一見もっともらしい数々の嘘をも交えながら、言葉巧みに相手の心身をその範疇へと誘い導き、まがいものの自由の中へと取り込んでしまうことにほかなりません。
我々人間は、たとえそうしたいと思ってはみても、たった独りでこの世を生き抜くことなどでるわけがありません。孤高の存在の象徴とでもいうべき禅の修行者のような身であっても、また、世間との交流をすっかり断ち切り独り流浪の生活を送るような人物であっても、文字通りの意味で社会との関係を完全に閉ざしてしまったら、詰まるところは自死するしか道は残されていないからです。ただ、現世との関わりを最小限にして己の道を歩まんとする禅の修行者や孤独な放浪者のような場合なら、たとえそれが世の常識からかけ離れたものであろうとも、ある程度までなら、折々是々非々の自主的判断を下しながら我が道を進むことはできるでしょう。大きな嘘をつくにしても、理不尽で過激な主義主張を唱えるにしても、その対象が自らのみに限られているならば、他者に迷惑な影響を及ぼすことはないばかりか、それらの嘘や自己主張そのものが自身の生きるエネルギーへと転化するという、常識とは裏腹の流れさえも起こり得ることでしょう。
しかし、生来、社会動物としての特性を具え持つ一般の人間は、国家や自治体、諸企業や諸組合をはじめとする何らかのかたちの組織体に属しており、それら組織体の統合的な政策や方針、意志決定などには従わざるを得ません。自由意志の尊重が民主主義社会の根幹を成すなどと言えば聞こえはよいのですが、現実には、個々の人間にそれほどに随意な意志表示や行動の自由が許されるわけではありません。結局のところ、自らが最も信頼かつ賛同できると思う政治家や宗教指導者、組織体のリーダーらの意向に沿うかたちで、自身の意見の表明や行動の選択をしていくしかないのです。シニカルな言い方をするなら、それは、周辺の様子を窺いながら自らの本心を適宜抑え込み、上手に騙される行為だと考えてよいでしょう。寄り添う相手が組織体の独裁的な最高指導者であれ、民主主義的なプロセスによって選ばれた大統領や首相のような指導者であれ、その本質に違いはありません。そして、それゆえにこそ、昨今の世界にみるような、巧みな嘘に嘘を重ねたフェイクニュース合戦、さらには国家絡みの熾烈な情報戦略合戦が生じたりもするのです。
(偽情報の世界を生き抜くには)
 一昔前は「映像は嘘をつかない」などともてはやされ、戦場カメラマンらによる戦闘現場の生々しい写真類などは、悲惨な事実の実態を裏付けるものとして高く評価されていました。しかし、映像加工技術が飛躍的に発展した現代社会にあっては、「映像は嘘をつくための最高のツール」と成り果ててしまったようです。そして、そんな映像類を予め製作編集したうえでその流れに添って展開されるニュース報道は、必然的にフェイクに満ちみちたものになっていきました。テレビ・ラジオや新聞雑誌、さらには各種SNSなどを介して怒涛のごとく流れ出す、真実と虚偽とが多重多様に交錯した映像や情報群を我々はどう受け止めるべきなのでしょう。絶対正解など存在していないゆえに話は何とも厄介です。
 現在のウクライナ情勢をめぐる、西欧寄り社会とロシア寄り社会との間の熾烈で欺瞞だらけの情報戦に、心ある人の誰もが辟易していることでしょう。「盗人にも三分の理」という昔からの諺にもあるように、悪事を働く者の側にもそれなりの言い分は存在するというわけで、誰しもが納得するような善悪の基準などこの世には存在していないのです。昔、大学で受けた一般教養課程の哲学の講義の中で、ビクトル・ユーゴー作「レ・ミゼラブル」の主人公の窃盗行為の是非が問題になったことがありました。その講座の外国人講師は日本のある著名な教会の神父で、離日後に世界的に知られる宗教学者となったのですが、その人物は、「究極の飢えにあるような状態で他人の物を盗む行為は罪ではないのです」と断言して憚りませんでした。何故かその一言を今も私は忘れることができません。
 元々絶対的な正義や倫理など存在していないうえに、一般人にはその真偽判断など不可能な国家絡みの意図的フェイク情報が飛び交う現世を、我々はどう生き抜いていくべきなのでしょう。極力広い視点に立ち、その時点における自らの立場とは異なる側の諸状況についても十分な配慮をめぐらしたうえで、虚々実々の情報群から冷静沈着に自分なりの見解を導き出していくしかありません。当然、その見解や判断には偽情報に基づく誤りが少なからず含まれているだろうことは自覚しておくべきでしょう。そして、あとになって、万一、それが大きな間違いだったと判明したような場合には、人間に誤りはつきものだという前提のもと、潔く己の判断ミスを認める度量も不可欠です。「三分の理」なるものに執着しながら己の正当性を強硬に主張したり、判断ミスを他人の所為にしたりすることは当人の自由ではありますけれども、それは個人的に賛同できる対応ではありません。
 誇大妄想を働かせるなら、プーチンとトランプの内応関係はいまもなお続いていて、プーチンはウクライナ問題を今後も長々と引き伸ばしながらトランプの再登場を待ち、トランプはプーチンとの裏取引をもとに、ウクライナ問題を平和的に解決してみせるふりをして大統領に再選されるという筋書きだって皆無ではないでしょう。対立を演じる悪党指導者らが裏では庶民の無知を嘲笑しながら握手を交わし合うという、ジョージ・オーウェル作「アニマル・ファーム」の結末そのままの展開だけは間違っても目にしたくありません。

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