時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――その実景探訪(13)(2019,04,01)

(フラクタル理論と再帰機能の関係について考える)
 もうかなり以前のことですが、フランス人数学者ブノア・マンデルブローは「フラクタル理論」や「フラクタル幾何学」という新たな研究分野を確立し大いなる脚光を浴びたものでした。ある理論や図形のなかに自らと相同あるいは相似な構造を入れ子構造同様に多重多層にわたって内有するという、極めて特異な構造体系を研究する領域なのですが、それらはコンピュータ用プログラムのもつ再帰機能と深く結びついていました。
たとえばフラクタル図形とは、それをどのように微細な段階にまで分解していっても、その微細部分が元の図形全体と同じ形状・構造を繰り返しそなえもっているため、数学的な微分が不可能である図形のことを意味しています。コンピュータ用プログラムの再帰機能はこのフラクタル理論やフラクタル幾何学の思想を実践的かつ効率的に取り入れたもので、現代では各種の先端コンピュータ・グラフックス技術や、画像認識を含む超高速・超高度なデータ分析処理技術などをその根幹で支えてもいるのです。
 再帰機能を用いたプログラムは、特殊なアルゴリズムに沿う当該プログラムを実行途中で一時的にその作業を保留中断したうえで自らの縮小版の実行に移り、さらにその作業途中で縮小版のさらなる縮小版を実行するという一連の流れを繰り返していくことになります。そして、指定された一定の条件を満たす下位階層に到達すると、そこから今度は逆に途中で保留した作業を順々に実行しながら、最上位階層のプログラムまで来た道を戻り、全体の作業を最終的に完成させるというプロセスをとるのです。
しかも、そのような再帰機能を多重多層にわたって複雑に組み込んだA,B,C,Dなどの異なる機能をもつプログラムを作成したうえで、さらにそれらが三つ巴、四つ巴のかたちをとって相互に入り組む上位プログラムを構成した場合などには、その実作業プロセスやデータ処理中の流れを逐次追うことはほぼ不可能になってしまいます。そのアルゴリズムの論理的な構造はわかっている人間にとっても、超高速で起動するコンピュータのデータ処理プロセスをリアルタイムで追尾することは絶望的だからです。どんな天才数理科学者の頭脳をもってしても稼働中のコンピュータの複雑かつ高速な演算速度にはついていけないことを想い浮かべてもらえば十分でしょう。
 極めて初期の頃のコンピュータは演算処理能力もデータ記憶保持能力も低かったため、多重多層な階層にわたって再帰機能を用いようとするとスタックアウト、すなわち、メモリー容量不足による演算遂行不能状態に陥ったものでした。しかし、最近はスーパーコンピュータをはじめとする各種コンピュータの演算処理能力やデータ記憶保持能力が飛躍的に向上したので、再帰機能を存分に組み込んだプログラムを問題なく実行することができるようになりました。そのため、多岐にわたるコンピュータの処理能力は驚異的なまでに高まり、シンギュラリティ(技術的特異点)の到来を予感させるまでになってきたのです。その結果として、スーパーコンピュータなどの演算推移過程の詳細を人間が逐次把握するようなことは不可能になってきたわけなのでした。厳密な意味での論理学的思考体系の見地からすると、集合論の包含関係の定義に矛盾するようなところがあったり、一部には両刀論法(論理学ではジレンマという)にも似た奇妙な論理回路が導入されたりもしている昨今のソフトウエア体系ですが、裏を返せば、それゆえにこそ人間社会における諸々の課題の実践処理に貢献するようになったのだとも言えるのかもしれません。
 ただ、各種フラクタル事象の処理や複雑な数値演算処理、様々な画像やパターン認識などのために再帰機能が多用されるのはよいのですが、金科玉条のごとくに崇められがちな統計処理プロセスを制約なく組み込んだ再帰機能プログラムによって、我われ人間の言語的世界や心理的世界までが過剰に支配されてしまうことだけは避けなければなりません。
(人工知能とは称されるものの)
 昨今ではAI(Artificial Intelligence)、すなわち人工知能という概念が過度に独り歩きをしてしまい、従来ITと呼ばれていた情報処理技術に基づく諸製品や各種機器システムまでがすべてAIと呼ばれるようになってきています。いまやビジネス界などではAIで新規事業を進めるとアピールしただけで投資者や支援者が次々に現れるという有様ですから、そんな世相の流れに抗うのは最早容易なことではないでしょう。しかし、今後ますますこの世が情報技術社会化されていくことを思うと、ここで今一度立ち止まり、AIという言葉の定義を再考しなおしておく必要があるかもしれません。そうでないと、「AI教」の過度な流布浸透によって、知らぬ間に我われ人間の尊厳が冒されてしまうことにもなりかねないからです。
 コンピュータはもともとオーグメンテーション・ツール、すなわち、人間の思考能力や諸感覚、運動機能などを促進したり拡大発展させたりするための道具として開発されてきたものです。その意味からすると、当世流行のディープラーニング機能や機械学習機能を備えたいわゆるAIマシンなるものはすべてオーグメンテーション・ツールなのであり、あくまでも人間あってこその存在なのです。要するに宇宙を探索する各種望遠鏡や極微世界を探究する電子顕微鏡と同類だと考えてもらってよいでしょう。ただ、1956年に米国で開催されたITをテーマとするダートマス会議に際し、進行役のジョン・マッカーシーが、同会議の意義や目的をより明確に国際社会へとアピールするためにAI(人工知能)という用語を創案したことはやむを得ないことだったのかもしれません。
 もしも「知能」と称されるなら、そのマシンやシステムは、人間の力など一切借りず自らの意思や目的を持ちながらそれにそって自律的に行動し、たとえアルゴリズムやプログラムが必要だとしてもそれらを自力で開発構築し、時代の変化に適応しながら未来に向かって発展することが不可欠となるでしょう。また社会や自然界の様々な危機的状況などを察知して、それらを防止したり回避したりするような対応策を自発的にとることも求められるはずなのです。人間のオーグメンテーション・ツールではないそんな真の意味での人工知能の誕生は、現実世界では今なお「夢のまた夢」だと言っても過言ではないでしょう。
 自らを敢えてマッド・サイエンティスト化せしめ、現実には不可能と思われるような事柄を「実現できる」と固く信じ込むように仕向け、その研究に没頭するような人物がたまに現れたりするものです。むろん、「信ずれば成る」の諺にもある通り、実現至難な研究課題に取り組み、艱難辛苦のすえにその課題を達成するためには、その種の精神構造がある程度必要なのかもしれません。しかし、人間の知能そのままの自主的かつ創造的な思考ができる人工知能や人型ロボットを生み出すとなると、それはまだ遠い世界の話です。

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