時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――実践的思考法の裏を眺め楽しむ (1)(2019,10,01)

(「教養」というものの本質をあらためて見直してみる)
 これまで哲学の世界を概観したり、その世界の個々の実景らしきものを遠巻きにしながら眺めたりしてきましたが、これからは思考上の様々な手法やそれらを実践するために不可欠な視座の選び方などについて、少しばかり考えを進め深めていくことにしましょう。
 私たちは「教養」という言葉を常々よく耳にしています。ただこの言葉、近年の我が国ではあまりよいイメージを持たれておりません。「おまえは教養がない」とか、その逆に「教養なんて何の役にも立ちはしない」とかいった用い方をされるのが多いことからもわかるように、その言葉の意味する内容は実生活とは無関係なものだと見做されがちだからです。前者のような用い方をされる場合は、どこかお高くとまった人々だけが好む特別な知識の類を意味するものだと受け取られがちですし、後者のような使い方の場合には、そんなものには実益性や実用性など皆無だと考えられていることになります。いずれにしろ、その概念は一般庶民の実生活とは直接的に結び付くことのないしろものだというわけなのです。
しかし、実際問題として、「教養」というものはそんな程度の無意味で無益な存在に過ぎないのでしょうか。今なお多くの大学には「一般教養課程」とか「教養学部」といったようなものが設けられており、さらには「秋田国際教養大学」などのように「教養」の一語をその名称の中核部に配した大学もあるくらいですから、そこには何かしらの重要な意義や概念が秘められているはずなのです。よく耳にする言葉に、「リベラル・アーツ(liberal arts)」という英語があります。ラテン語に起源するこの言葉は、「各種の職業や個々の専門研究分野に直接関係するのではなく、それら諸様態を超越した広く総合的な視点からこの世界の事象全体を考え、多岐にわたる構成要素を有機的に関連付けていく手法」を意味しており、時代とともに徐々に転じて、それは「総合的な学問や芸術」という概念へと昇華されていったようなのです。現在、大学などで用いられている「教養」という言葉はその「リベラル・アーツ」を和訳したものだと考えられます。
もちろん、「教養」という言葉は日本には昔から存在していました。国語辞典などで「教養」という言葉を調べると、「①教え育てること、教育。②学問や知識などによって養われた品位。③学問、芸術などによって磨き蓄えられた能力や知識、文化に関する広い見識」などといったような意味付けがなされているようです。①、②の意味は昔から日本にあったもので、確かに少々お高い感じがしなくもありません。しかし③は「リベラル・アーツ」という英語の持つ意味にほぼ即したものになっています。おそらく、その英語が、「自由学芸」という初期の訳語を経て「教養」という訳語に落ち着き、国語辞典にもその旨が記載されるようになったからなのでしょう。そして、ここで私たちがその意義を再検討してみるべきなのは③番目の意味での「教養」なのです。冷静に考えてみればわかるように、けっしてそれは実生活と無関係なものではありません。当然ながら、大学の「教養学部」などは「リベラル・アーツ」を専攻する重要な部門だということになってくる筈なのです。
(「教養の樹」なる存在を仮定)
 「教養」というものの本質をわかりやすく考えていくために、多岐多様に分岐したその細い枝先に無数の花々が咲いたり実が生ったりしている「教養の樹」なるものを想像してもらうことにしましょう。ただし、この想像上の巨木「教養の樹」の枝先に咲いたり生ったりしている花や実のすべては、通常の樹木のそれとは違って、一個一個がまるで異なる色や形、香、味を具えているものだと仮定します。それぞれの枝の葉の形状や色合いにも相互に違いがあると考えてもらってもよいかもしれません。また、隣り合う枝々の先に咲いたりなったりするそれぞれの花や果は、かなり似かよっていたとしても、それらはけっして同じものではないと想定してみてください。要するに、この「教養の樹」は、どの枝先にも同じ花が咲き同じ実の生る通常の樹とはまるで異なっているというわけです。
 いまこの「教養の樹」に「人虫」というそれなりには知的な種類の虫が多数棲みついているとしてみましょう。当然ですが、そんな人虫は、通常それぞれに特定の枝先に棲息し、そこに咲く花やそこに育つ実の成分を食べて生きることになります。ところが、通常の樹木でもよくあるように、何かしらかの原因で、突然、ある枝先の花や実だけが枯れたり腐ったりする事態に見舞われたとしてみましょう。もしそこに棲む人虫が他の枝の存在も知らず、また仮にその存在を知っていたとしても、枝先につく異質な花や実に適応する能力を具えていなかったとすれば、その虫は衰弱しやがて息絶えていくしかありません。
 その一方、自らの棲む枝先のほか、比較的近隣の枝々の先までを常々動き回り、そこに生じる花や実にも十分な適応能力を持ち具えた人虫がいたとしてみましょう。そのような人虫は、本来の棲み処としていた枝先に異変が生じたとしても、近くの他の枝先に移り棲み、そこに新たな活動の場を設けながら生き延びることができるのです。ひとつの枝先のみに限られた場合よりも一段と大きな視点と経験に基づく総合的な判断力が、実生存のための知恵となってその人虫の命を支えるがゆえにです。さらにまた、より大きな行動力と環境適応能力をもち、「教養の樹」の遠く離れたあちこちの枝先までを廻り動いてその異界に棲む他の人虫と交流し、そこの花や実の成分をも受け入れることのできるようになった人虫の生命力は一段と高いものになるでしょう。そんな人虫はいざというときに役立つ視野の大きさと環境適応能力の高さを自然と身につけることになるからです。
 しかし、どんなに活力のある人虫にとっても、想像上の巨木である「教養の樹」に無数に存する全ての枝々を這い廻り、そこにしか存在していない個々の枝先の花や実の成分を漏れなく味わうことは不可能です。ところがそれでもなお、なかには可能なかぎり「教養の樹」の全体像を把握しておきたいと望む人虫も現われたりするものです。その望みが叶うなら、自身の生存能力が飛躍的に高まるばかりでなく、まるで異質な花と花、実と実とを結び付け、それまで存在しなかったような新しい花や実をつける枝々を新たに生み出すことにも繋がっていくからです。ある時から、一段と大きな展望をもつそんな人虫たちが集まって、それぞれの知る様々な枝先やそこに咲いたり生ったりする花や実の情報交換するようになったとします。そして、それらをわかりやすく纏めて体系化し、自らのためだけではなく、後世の人虫たちの生存にも役立つようにとの願いを込めて「教養の樹」全体の構成像を伝え遺してくれるようになったらどうでしょう。「教養の樹」の枝先にある互に異質な花や実を人間社会の多様な生活技術や実践的情報に置き換えてみれば、それらを繋ぐ「教養」という名のネットワークの重要性などもおのずから理解されることでしょう。

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