時流遡航

《時流遡航》エリザベス女王戴冠式と皇太子訪英(1)(2014,08,15)

 BBCの放送理念についての話の中で「ある奇人の生涯」(木耳社)という拙著を紹介した折に、その主人公の石田達夫BBC日本語部アナウンサー(53年当時)が目にした「人間皇太子」の姿について少しだけ触れた。この際だからそのエピソードをいま少し詳しく述べさせてもらうことにしたい。
(皇太子の初訪英を前にして)
「国際間における英国の政治的影響力が衰退していくにつれて、なんとも皮肉な話ではあるが、BBCの名声のほうはますます高まっていくようになった。極力偏見を抑えた公正な観察者の見識としてBBCの報道は国際的にその意義と影響力を評価されるようになったからである」と、英国紙「ザ・ガーディアン」が論じもしたように、戦後BBCは一層の発展を遂げるようになったのだった。「コーランを聴くがごとくに私はBBCに耳を傾ける」とか、「イギリスに誇るべきものが四つある。大学、高級ブランド品、女王、そして世界のBBC」とかいったような称賛の声がアラブ人たちからも寄せられるほどに、BBCはその存在を世界中の人々から認知されるようになっていった。もちろん、BBCといえども時には誤報を流したり、公正を欠くような報道をしたりして、多方面からの批判に晒されるようなことも起ったりしはたが、そんな場合でも信用回復のためにBBCは誠意ある態度と冷静沈着な判断をもって対応した。
 1949年4月、33歳の石田達夫が着任したBBCは、そんな背景のもとに成立し、その最盛期に向かってこれから一大発展を遂げようとしている段階にあった。その意味からしても、遥々イギリスにやってきて日本語放送部門に勤務するようになった新人の石田に期待されているものは少なくなかった。ジョン・モリス・ジェネラルマネージャーやレゲット日本語部長は、ロンドンの生活に慣れるまでは仕事の面でもあまり無理はしないようにと助言もしてくれたが、自分に対する彼らの期待がひとかたならぬものであることを石田は十分に自覚していた。だから、その心身の緊張のほどは尋常なものではなかった。ただ、そんな状況下の彼にとって唯一の救いとも言うべきは、自分の英語が本場イギリスにおいても何の問題なく十分に通じるということであった。
 6年間に及ぶBBC勤務の中で石田が体験した最大の出来事は、1953年のエリザベス女王の戴冠式と、それに伴う日本の皇太子の訪英であった。この年の2月8日には、日英両国においてエリザベス女王の戴冠式には昭和天皇の名代として皇太子(現天皇)が参列するということが発表され、そのための訪英日程なども公表された。それによると、皇太子は、訪英に先立ちアメリカやカナダを歴訪し、そのあと、当時世界最大を誇った英国の豪華客船クイーン・エリザベス号に乗り、大西洋を渡ってサウサンプトン港に到着するということになっていた。そして、4月に入る頃になると、日本の皇太子が4月27日に英国に到着するというニュースは一般英国民の間にも広く伝わっていた。
 昭和天皇直々ではなく皇太子が名代に立つという配慮は、当時の英国の反日世論を危惧してのことでもあったが、やはり英国内では排日気運が高まり、その動きは日毎に激しさを増していった。タイやビルマの対日戦線などで負傷した傷痍軍人や、日本軍の捕虜となり同地での鉄道建設に伴う強制労働が原因で死亡した元英兵の遺族らは、「俺たちを不具にしたり、俺たちの子供や兄弟を奪った憎っくき国の皇太子には絶対に枕木を担がせてやるんだ!」などと怒りを顕わにする有り様だった。さらに、彼らのなかには、サウサンプトンまで出向いて実力で日本の皇太子の上陸を阻止するのだと息巻く者も現れはじめた。
 当然、英国の当局者もその種の国内世論の異常な高揚を恐れてはいたが、一方の日本大使館関係者の心労もまた尋常ならざるものであった。皇太子の身に万一の事態でも生じたら、単なる責任問題程度の話では済みそうになかった。ただ、各国から多数の元首や王族関係者が続々と英国入りするなかにあっては、日本の皇太子だけを特別に警護してほしいとイギリス政府当局に依頼するわけにもいかなかった。また、たとえそのような要請をしたとしても、即座にそれに優先対応してくれるようなお国柄でもなかった。
(松本大使とサウサンプトンへ)
 サウサンプトンに皇太子を迎えに行くのは松本俊一駐英大使の役目ではあったが、NHKからBBCに一時派遣されていた藤倉修一と石田達夫とは、皇太子の英国到着の様子を取材する仕事を兼ねて松本大使に同行する手筈になっていた。かつて日本から飛行艇に乗って渡英した際にサウサンプトン港に上陸した石田は、その周辺の状況にも通じていたから、BBCサイドの取材のためばかりではなく、あまり英語に通じておらず、現地事情にも疎い藤倉の先導役としても適任だった。
ただ、英国に滞在する53年当時の日本人の数は大使館員を含めてもごく僅かなものだったから、皇太子を迎えにサウサンプトン港まで行けるのは多めにみても数人程度に過ぎなかった。だから、もしも反日感情を抱く英国民らが皇太子上陸阻止の実力行使にでたりしたら、それに抗すべきすべがないのは明白であった。
 もっとも、石田自身は、それまでの英国生活、なかでも自ら進んで体験したロンドン市中の庶民街での貴重な生活を通して、ロンドン在住の他の日本人らとは少々異なる思いを懐いていた。それは、英国民の多くは、たとえそれが下層階級の人々であったとしても、真摯な振舞いに徹しさえすれば、よほどのことでもないかぎり一個人の立場と一国家としての立場とを明確に区別して考えてくれるはずだという思いだった。イースト・エンドのパブで、英国人捕虜に対する日本軍の残虐な行為のために兄を失ったという男が憤りながら掴みかかってきたとき、身体を張って石田を守ってくれたのは、その場に居合わせた貧民街のお喋り好きなオカミサンたちにほかならなかったからでもあった。
 だから、石田には、いざという時には、誰かそれなりの立場にある人が、「日本の皇太子の渡英に対して、英国民は冷静に振舞うようにしよう」との呼びかけを行ってくれさえすれば、その騒動は沈静化するのではないかという密かな期待感もあった。ひとつだけ危惧されるのは、皇太子が日本の皇室の一員として戴冠式に列席するために訪英するのではなく、日本というかつての交戦国家を代表して英国にやってくるのだと受取られた場合には、過激な行動に走る者も皆無ではないだろうということだった。

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