(生命体というものの宿命や、その能力の限界を考える)
ウクライナとロシア、さらにはイスラエルとハマスとが対立するなかで、多数の無辜の市民を巻き込んで繰り広げられる凄惨な争乱は、いまだに終息の気配が見られない。一連のそんな国際情勢を前にすると、他者との宥和を切望するにもかかわらず、その一方では、心中深くに隠れ棲む悪魔の資質を制御できなくなってしまう人間の本質というものを悲しいものだと思いもする。そしてまた、一人の人間としての己の無力さをつくづく痛感させられる。もっとも、だからといって、老い果てた今となっては、そんな状況に敢えて立ち向かうべく、何らかの有意義な行動を起こそうという気にもなれはしない。
ただ、ガザ地区の病院や避難先の施設の床に瀕死状態で横たわる多数の乳幼児の姿や、自らも裂傷を負っているにもかかわらず、それらの傍らにあって激しく泣き崩れる親たちの姿を捉えた映像を目の当たりにすると、人間と言うものの残忍極まりない本性を再認識せざるを得ない。しかも、そんな報道映像にフェイク画像が少なからず紛れ込んでもいるらしいというのだから、人間社会の醜悪さは最早救い難い状況に至っている。
(深く鋭く突き刺さった老女の言葉)
しかもそんな折、さらに衝撃的な回想証言に接することになったのだから心中は一層複雑だ。その証言を聞いたのは、終戦直前の満州北部からソ連軍や中国民兵団に追われながらも命からがら生還した、旧満州開拓団所属の高齢女性の登場するNHK・BSチャンネルのドキュメンタリー番組を通してのことである。両親や兄弟姉妹、数々の仲間らを眼前で斬殺され、自らも落命の危機に瀕しながらも、辛うじて母国への帰還を果たしたという老女がその番組中で吐いた一言は、想像力の衰えた老体の胸にも深く鋭く突き刺さった。
それは、「人間というもの、どんなに悲しくてもまだ涙が出るうちは幸せなんです。生きるか死ぬかの凄絶な現場に瀕すると、遂には涙も全く枯れ果て、たとえ親族のものであっても、人間の死体などは単なる物にしか見えなくなってきてしまうものなんです」という、唯々息を呑むしかない辛辣な一言だったのだ。生死を分ける窮極の場に立った人間の姿の本質を抉り出すようなその言葉に圧倒され、この身はしばし沈黙の淵深くに沈むしかなかったものである。そして、そんな無言の沈思の中にあってたまたま想い起こしたのが、ある親しい人物がよく引き合いに出すことの多い次のような深い戒めの詩文であった。
かつてあったことは、これからもあり、
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいことは何ひとつない。
見よ、これこそが新しい、と言ってみても、
それもまた、久遠の昔からあり、
この時代の前にもあったのだ……。
これは、今から二千数百年前にヘブライ語で著された旧約聖書の中にある有名なコヘレトの言葉にほかならない。ただ、ガザ地区で起こっている現下の惨劇を眼前にすると、その言葉の主が、現イスラエル国主要部を構成するユダヤ民族の遠い昔の先哲のひとりであったという事実が、痛切な皮肉そのものにも感じられてきてならない。
(諸生命体の活動の限界を凝視)
過去の壮大な地球の歴史や原始生命体誕生以来の生物史の観点に立って見るならば、一時的にはその存続は永劫とさえ思われるほどに繁栄を遂げた生命種属であっても、結局のところは衰退絶滅の道を辿るのは必然のことである。その根本的な原因は、地殻変動をはじめとする自然環境の想像を絶する一大変異や、勝つか負けるかの他属種との宿命的生存競争に直面した場合、どう足掻いてもそれらに的確な対応などなし得ない生命体の生存能力の限界にあるのだろう。たとえば人間の誰しもが心中深くに内有する自己生存本能というものは、理性的抑制の働く一定条件内で機能するかぎりにおいては、その本性を剥き出しにしてこの世界の安定や社会の平穏を阻害し、それらを窮地に追い込むことはない。
だが何らかの理由でその抑制力が失われたとき、生存本能は暴走し始める。自己防衛という名目のもとに、己が生き延びるためなら、異種生命体など対してはむろんのこと、たとえ同種同族間ではあっても、他者の命などどうでもよいとその本能は殺意剥き出しで足掻き立てる。一時的にはその凄惨な行為は功を奏するかもしれないが、自然界の一大摂理の下にあっては、詰まるとことは廻りめぐって他ならぬ己の命の消滅へと至ってしまう。
そもそも地球上の諸生命体というものは、同種間、異種間にかかわらず、「相互依存性」と「相互敵対競合性」の両側面を内有しながら、適宜それら双方のバランスをとって生きている。だが諸々の理由でその微妙かつ絶妙なバランスが崩れると、自らの死や自身が属する種族の絶滅にも繋がる悲劇的な結末が待ち受ける。冷徹このうえない大自然の摂理というものは、そんな生命体の誕生、盛衰、そして絶滅の過程を宇宙の変遷にとって必然かつ不可欠なものとすることによって成り立っているに違いない。そんな観点に立って見るならば、如何に勇み立ってみても人類の繁栄など所詮一時的なものに過ぎないのだ。
宇宙の研究開発が進み、138億光年彼方の星雲像を認識することが可能になった現代においては、人類の未来は永遠のものであるかのごとく錯誤されるきらいさえもある。しかし、それは非現実的な認識で、夢想も甚だしいところだと断じてもよいだろう。光の法則やその性質に基づき冷静な思考を廻らせてみるなら、将来どんなに科学が進歩したとしても、大宇宙変遷の全容を詳細に把握することなど不可能だとわかるからである。たとえ窮極の進化を遂げた知性が存在したとしてもその認識力にはおのずから限界が伴う。
そもそも、現段階で宇宙の最果てとも称されている138億光年彼方の星雲像というものは、文字通り138億年前のその星雲の姿であって現在の姿などではない。もし問題の星雲の現在の姿を見ようとするならば、宇宙膨張による時間の増大を抜きにしても今後138億年間待ち続けなければならないことになるが、その時には地球など消滅してしまっているだろう。逆にまた、我々が属する銀河系の138億年前の姿を実観測しようとするならば、138億光年彼方のその星雲あたりまで瞬間移動でもしなければならない。相手側からすれば、地球や太陽系の属する銀河系周辺こそが宇宙の最果てということになる。詰まるところ、諸々の天体像や宇宙像に関しては、経過時間に長短の相違はあるにしろ、過去の姿を把握するしかないわけだ。如何にその知性を誇ってみたところで、人類の能力など高が知れている。