時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――その概観考察(18)(2018,09,15)

(「帰納」と「演繹」の概念について考える)
具象と抽象の概念について大まかなところを述べてきましたが、それらの概念を考える場合に切り離すことのできないのが、帰納と演繹という二つの概念です。多くの方は高校時代の数学の時間に「数学的帰納法」なるものを学んだ記憶をお持ちでしょう。その際に、「帰納」という言葉と合わせて「演繹」という言葉をも教わったことだろうとは思うのですが、現実問題としてそれらが何を意味するのか、またそれらの概念を学ぶことにどのような意義があるのかについては、いまひとつよく理解できないままに終わってしまった方のほうが多いのではないでしょうか。
 そこでまず、演繹とは何かということについて考えてみることにしましょう。数理科学の世界などには、それらが絶対的なものとして無条件で受け入れられている各種の定義、公理、定理、さらには諸々の法則などのような基礎概念が存在しています。通常、我われが何かしらの未知の事象のメカニズムを理論的に究明したり、新たな技術やシステムの開発を行ったりする場合には、その種の既成の基礎概念を必然の前提として受容し、それらに基づいて諸々の考究や研究開発を進めていくことになります。そして、そのような類の一連の思考過程や研究開発促進の過程が「演繹」と呼ばれているものなのです。
演繹的思考のなかでも典型的なものは、数学や物理学の世界などにみる「証明」という過程やその種の普遍的概念です。通常、初等・中等学校さらには大学などで学ぶ数学や物理学のほとんどは演繹的な内容がほとんどであると考えてもらってよいでしょう。要するに、演繹とは、「前提を受容し、その前提概念に基づいて論理的に正しいと想定される推論を重ねていくことにより、何かしらの結論を導き出す行為」を言うわけなのです。もちろん、そのようにして得られた結論が、その後に続く演繹思考の新たな前提を構成する定理や法則となることも少なくありません。一般的には、演繹というプロセスが積み重ねられていくにつれ、そこで扱われる概念の抽象化の度合いは高まっていくことになるのです。
 一方、これまで未知のものだった新たな事象や、もともと存在してはいたものの今までほとんど注目されてこなかったような事象に関して、それらの様態を説明するのに不可欠な基本的約束事、すなわち、定義や定理、法則などといったものが存在していない場合には、我われのなかの誰かがそれらの前提概念を創り出したり発見したりしなければなりません。そのためには、対象となっているそれら一群の事象を詳細かつ具体的に観察したり分析したりすることによって、その事象についての定義、定理、法則などを新たに導き出していく必要が生じてきます。先に譬話として、エイリアンがたまたま人類をその研究の対象にし、「人類」という概念を形成する場合に辿るであろう過程について述べましたが、それなども同様の事例のひとつだと考えてもらってよいでしょう。
このように、「具体的な個々の事象の観察と分析を通して得られた情報や結果に基づき、事象全体に共通するような一般法則を導出すること」を、我われは帰納と呼んでいるわけなのです。演繹の過程で用いられている定義、定理、法則などの前提概念に、同概念の対象となる事象群の時間的推移と変化が原因で大きな不備が生じた場合、それらを適宜改める必要が生じますが、その過程もまた帰納の一種だと考えてもらってよいでしょう。
 要するに、帰納と演繹とは相補的な関係にあって、それらの間には明確な境界などは存在せず、相互にフィードバックし合うことによって人間社会や自然界に対する我われの認識を深めることに貢献していると言ってよいでしょう。なんなら、演繹的考察は抽象寄りの思惟であり、帰納的考察は具象寄りの思索であると考えてもらってよいかもしれません。
もう随分昔の話になりますが、あのドイツの天文学者ケプラーは、太陽系の一部の惑星の詳細な動きを観察して惑星運動には一定の規則性が存在していること、すなわち「ケプラーの法則」なるものを発見しました。この惑星運動の法則を導出した過程などは帰納的思考の典型だと考えてもらってよいでしょう。それに対し、このケプラーの法則を前提として諸惑星の運動を詳細に予測したり惑星の運動に伴う諸現象の研究を進めたりするのは、むろん演繹的なプロセスになるというわけなのです。
自然数の性質やそこに見られる諸々の規則性を調べる場合などに、試行錯誤を繰り返しながら個々の数のもつ特性を具体的に検討し、そこに見られる法則を発見してそれが自然数全般にわたって成立することを示すのも帰納的手順です。そして、それこそが「数学的帰納法」と呼ばれるものなのです。もちろん、そのようにして導かれた自然数に関する公式などを用いて何らかの数学上の問題を証明したりするのは演繹的過程にほかなりません。
(初等期の帰納的思考体験事例)
 ある子どもがいて、夏の季節がくるごとに、昼夜を問わず自らの気のむくままに林のなかを散策し続けたとしましょう。そして、好奇心の強いその子が、偶々、地中から蝉の幼虫が出てくる有様や、その幼虫が近くの樹木によじ登り、その樹の幹、枝、葉先などの適当な場所を選んで動きを止め、そこで羽化するまでの一連の様態を観察することに成功したとしてみましょう。蝉が羽化するまでのそんな生態に興味を持ったその子は、何度も同様の観察体験を積むうちに、蝉の幼虫が地中から出てくる可能性の高い場所やその時間帯、樹木を伝い登る幼虫の習性、さらには羽化に適した樹種・樹形などについて何かしらの特性や法則性があることに気づくようになるはずです。
一見したところそれは何でもない行為のようにも思われますが、実を言うと、たとえ初歩的なものではあったとしても、それは帰納的思考過程のひとつにほかならないのです。そして、その子どもは自らの実体験を通して得たその特性や法則性を基にして、効率よく蝉の幼虫を発見したり、それが羽化するまでの一連の過程を手際よく観察したりすることができるようになるでしょう。むろん、それは演繹的思考過程のひとつということになります。初等期の子どもがこの事例のような帰納的繹思考やそれに基づく演繹的思考の体験を積むことは、本質的能力形成にとって極めて大切なことなのです。とくに前者の帰納的思考の体験は、発達心理学者のジャン・ピアジェがその重要性を唱えた「具体的操作の段階」とも繋がる、人間の成長にとって不可欠な要素でもあるのです。
 蝉の幼虫の居場所や羽化に至るまでの生態情報を大人が子どもに与え、その教えに従い子どもが効率よく幼虫を発見・観察することは容易でしょうが、それは演繹的な対応であって、帰納的な対応ではありません。偉大な科学的業績の多くが帰納的思考に基づくことを思うと、初等期の帰納的思考体験は特に重要だと言わざるをえないでしょう。

カテゴリー 時流遡航. Bookmark the permalink.