時流遡航

《時流遡航300日々諸事遊考 (60)ーーしばし随想の赴くままに(2023,04,15)

(真の意味での「一期一会」なるものは )
 このところチャットGPTなるものの登場が報じられ、AIが人間の言語表現能力を超えるのも時間の問題で文筆業に携わる者などは仕事を奪われるのではないかと喧伝されたりしている。だが、かつて初期的なAI用アルゴリズムの制作や、それに基づくプログラミング作業に多少なりとも携わったことのある愚身などは、人間の参画を一切抜きにしてそんなことが出来るものなら何時でもどうぞと、開き直っている有様だ。この問題についてはいずれまた論じることになると思うが、たとえば特定個人の視点や心象を基にした回想録や紀行文の執筆ひとつをとってみても、その全作業をAIが自力のみで行うなど所詮不可能なことなのだ。些か余計な前置きを述べることになってしまったが、内心でそんな思いに駆られながら、遠い日に関するちょっとした回想記の筆を執り始めたところである。
「一期一会」という言葉こそが相応しい運命的な邂逅(かいこう)というものは、誰にとってもその生涯において一度や二度は必ずや起こり得るものだろう。しかし、長い年月が流れ去ったあとになって初めて、その折の何気ない出遇いが文字通りに「一期一会」であったと痛感させられるようなケースとなると、結構珍しいことではあるかもしれない。たとえ自分の人生にとって掛け替えのないものとなった廻り合いではあったとしても、いや、むしろそんな重要な出遇いであればあるほどに、殆どの場合は「一期一会」のままに留まらず、一期五会」や「一期十会」、さらには「一期百会」の如き状況にまで進展してしまうのがこの世の常だからなのである。
自らの過去を回顧してみても、拙著「星闇の旅路」、「還りなき旅路にて」などの刊行に深く関わって戴いた若狭の画家、渡辺淳氏との奇遇や、その後の著作「ある奇人の生涯」のモデルとなった石田達夫翁との出遇い当時の状況などは、「一期一会」と称するに相応しいものではあった。だが、結果的には、「一期百会」に近い状況に成り果ててしまったものである。生来の厚かましさのなせる業と言えばそれまでなのだが、そんなこの身にも「一期一会」という言葉がそのまま当てはまるような出遇いが一度だけはあったのだ。
(東京行き急行列車での出来事)
 その頃まだ二十歳前の大学生だった私は、お盆の頃に合わせて帰省していた郷里の鹿児島から、超満員の東京行き列車に揺られながら東京へと戻る途中だった。当時の急行列車は、「急行」とは名ばかりで、鹿児島から東京まで30時間余も要していたものである。しかも、盆・正月時にあっては、立錐の余地もないほどの混雑ぶりを見せることも常であり、またそんな車内には、多くの乗客らが吸うタバコの煙がもうもうと立ち込めていたものである。一部に寝台列車が導入されはしていたが、料金も高くしかも繁忙期には極めてチケット入手が困難で、貧乏学生の身には高嶺の花そのものでしかなかった。
その時代、東海道本線を除いてはまだ電化が進んではおらず、客車は重量感溢れる蒸気機関車によって牽引されていた。ただ、汽笛を鳴らし黒煙と蒸気を吐き出しながら走る機関車の速度ときたら、現代の新幹線列車などのそれに比べれば信じ難いほどに遅々としたものであった。 蒸気機関車に牽引された列車の旅などというと、現代の若者や中年以下の人々にはメルヘンチックなものにさえ思われるかもしれないが、その実態を幾度も体験したことのある者の目からすれば、ある意味それは過酷とも言えるようなものではあった。
使用電力に限りのある機関車牽引の列車のことゆえ、現代の列車のようにエアコンや自動換気扇などは装備されていなかった。そのため、夏季などには殆どの乗客が扇子や団扇を持ち込み、折々片手で自らの顔面や首筋に風を送り、もう一方の手のハンカチやタオルで汗を拭いながら、長旅に耐え抜いたものである。また、そんな状況下のことゆえ、窓際の乗客らには、当然、手で重たい車窓を開閉しながら適宜車内の換気や室温調整に対応することが求められていたが、その作業にとって数々のトンネルは鬼門そのものの存在であった。
トンネルに入る直前になると機関車は必ず警笛を鳴らし、乗客らに車窓を閉めるように促した。トンネルに入ると機関車の吐き出す煤煙によって車列全体が覆われてしまうから、夜間など窓辺の席でうっかり窓を閉め忘れたまま眠り込んだりすると、たちまち車中に煙が充満してしまう有様だった。だから、猛暑の折などでもトンネルの出入りごとに車窓を開閉しながら、そんな非常事態に対応することを迫られたものである。長旅の折などは、個々の乗客がいくら注意深く振舞っていたとしても、相当数の人々が全身黒い煤まみれになってしまったり、煙を吸って咳き込んだりする事態が頻繁に生じてもいた。
 そんな列車が福岡県北部に差し掛かった頃のこと、小倉あたりから乗り込んできた一人の青年と偶々隣り合わせになった。九州と本州を繋ぐ関門海峡の海底トンネルを通過し本州に入るまではお互い無言で通したが、それから程なく、どちらからともなく言葉を交わすようになった。夏季特有の熱気に包まれた列車での長旅のことゆえ、気をまぎらわせるためにも隣の人と話をすることはよくあった。どこか知的な雰囲気を湛えたその人物は、私より5歳ほど年長だということだったが、東京で売れない無名の漫画家をやっているのだとかで、折々苦笑しながら、自嘲気味にその苦労譚や将来への不安を忌憚なく語ってくれたものである。ほんとうは違うものを描きたいのだが、生活のためもあってやむなく少女漫画的なものにも手と染めているのだということだった。
 そんな相手の一連の話の中で特に印象深かったのは、「自分はメカニカルなものに対する執着心が異常に強いので、たとえば飛行機を描きたいと思い立ったりすると、深夜であっても即刻羽田あたりに出向いて実物を観察しながら、精密描写しないと気が済まないのだ」との一言であった。また、売れない今の自分は年上の心の広い女性に支えてもらっている有様だとも吐露してくれた。世間知らずの学生の分際からすれば身に余る体験ではあった。
 東京駅に着くと互いの連絡先を伝え合うこともなくそのまま別れ、それから十年以上の長い歳月が流れ去った。そして、そんな昔日の出来事の記憶など脳裏からすっかり消え失せかけていたある日のこと、漫画関連のニュースを読んでいた私は突然衝撃に襲われることになった。かつて松本(まつもと)晟(あきら)と名乗っていたかの人物こそが、今や一世を風靡してやまない大漫画家の松本零士その人に他ならないと知らされたからである。もちろん、不束な身のことゆえ、連絡先を模索するなどという愚行はさすがに控えたが、以降私は「銀河鉄道999」や「宇宙戦艦ヤマト」をはじめとする松本作品の数々を憑かれたように読み漁った。
 既に周知のようにその松本零士氏も今年2月に逝去された。そんな今となっては、遠き日の一期一会の想い出を噛み締めながら、衷心よりそのご冥福をお祈りするばかりである。

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