時流遡航

《時流遡航321》 日々諸事遊考(81) (2024,03,01)

(日本の学術研究分野衰退の徴候とその背景を憂慮する)
 将来的に国家を支える諸々の分野の研究開発とそのための優れた人材の育成は、大学や大学院の研究・教育機関に課せられた不可欠な役割に他ならない。だが、大学や大学院の数だけが異常なまでに増加した一方で、国際的に見て明らかにその研究力や教育力が衰退しつつある日本の現状については、真摯な対応が求められよう。教育の平等性や教育の機会均等性が叫ばれ、その実現に向かって行政的配慮がなされてきたのはよいが、その結果として高等教育機関における学術研究の水準が大きく低下してきたとなれば話は別である。
絶対解も、また容易な解決策なども元々存在しない課題に立ち立ち向かう学術研究の場は、教育の平等性の色濃い高校期までの義務教育的な場とは異なっている。厳しい競争やそれに伴う研究能力の格差、個々の研究者や教育者が目指す方向性の相違などが存在しても当然の世界なのである。その意味では、特定の研究教育機関に特別な期待や評価が集中するのは必然の流れであり、そこに多額の研究資金が集中投入されるのもやむを得ない。問題は、一連のそんな状況を国民も十分理解したうえで、国際的な競争にも耐えられ、国力の維持向上にも応えられるような研究教育体制を、如何にして構築していくかである。ただ、教育問題というと一般人が口を差し挟みにくい領域だけに、話は甚だ厄介なのだ。
 2004年の国立大学の独立法人化が契機となって、各国立大学は独自の自由な経済活動が実践できるようになった反面、国から支給されていた従来の運営資金を徐々に削減されることになった。また「選択と集中」の名のもとに競争資金獲得制度なるものが設けられ、社会的に役に立つと見なされる研究に多くの研究費が配分されることにもなった。
表向きはもっともらしい学術政策のようにも思われたのだが、この政策の実施により大きな負の影響を受けたのは基礎学術研究分野であった。独自に経済的な利益をあげるため、諸大学での研究は、比較的短期間で研究業績が提示しやすく、また民間へのアピール力も強い各種応用技術研究分野へと力が入れられるようになったからである。また、「役に立つ研究」に集中的に研究費を配分するという政策そのものにも根本的な問題があった。そもそも「役に立つ」という発想は過去の社会的価値判断に立脚するものであり、大きく未来を睨んで的確にその裁定を行える人物など皆無に等しいといってよい。御用学者や学術研究の現場を知らない役人らの御都合主義や事なかれ主義に基づく判断がまかり通るだけの話である。
 一方、そんな状況下にあって甚大な負の影響を被るのは基礎学術分野の研究に他ならない。地道で厳しい試行錯誤の研究を繰り返しながら、まったく未知の事象の探究に挑む基礎学術分野の研究は偶然性に左右されるものも多く、また生涯をかけて行うようなものも少なくない。4~5年の短期間で成果をあげられるようなものは殆ど無いと言ってよい。また、仮に比較的短期間で何らかの研究成果が得られたとしても、それらが即刻実用的な価値をもつようなことは稀である。たとえば、私の知人の東京農工大教授で、ナナフシの繁殖生態を解明した人物がいる。行動範囲の狭いナナフシが広い地域にわたる繁殖力を持つのは、鳥類に捕食され消化されたあと、糞に混じるかたちで卵が排出されそれが孵化するからだという事実を突き止めた同教授らの論文は著名な英国学術誌「ネイチャー」にも掲載された。生物学の研究にとっては極めて重要な発見であり、基礎学術研究を重要視する海外先進国の大学などなら、その成果に対しそれなりの研究費が支給されることだろうが、昨今の日本の学術界ではその研究意義などはほぼ無視され、何の評価もなされていないようである。
多くの場合、地味な研究に明け暮れする基礎学術研究の分野であるが、たまに従来の知見を一変させるような大発見が行われ、それによって社会に一大発展がもたらされるのもまた、その研究分野の特質に他ならない。世界の先進諸国が応用学術研究分野と並行し、長期的展望のもと基礎学術研究分野を重要視しているのは、そのような背景があるからなのだ。基礎学術研究を軽んじる国が国際間で長期的発展を実現するのは至難の業である。
 ところが、昨今の日本の学術研究においては、基礎学術研究分野は無論、応用学術研究分野においても長期間を要するものは軽視され、短期間に実用性や実益性を誇示できるような応用研究だけが重要視されるようになっている。各大学に運営資金が十分に給付され、研究者が基礎学術に専念することのできた一昔前の日本の学術研究界の姿など、今や夢物語と成り果ててしまったのだ。かつてはそれぞれにユニークな基礎学術研究を実践していた地方の国公立大学などの多くが、目に見えて研究力を失っていきつつあるのは嘆かわしい限りである。その必然の結果として、大学院博士課程などを修了した若手の優れた基礎学術研究者らの勤務先がなく、海外にそれらの頭脳が流出するか、折角の才能を無為に枯死させてしまうかのような事態が次々と生じてきている。
(新設大学急増の背後に何事が?)
 海外先進国の大学が入学後の厳しい教育課程に基づき容赦ない進級抑制制度を設けているのに対し、日本の大学はたとえ有名大学であっても、一旦入学を果たし得たら余程のことがないかぎり卒業することができる。大学の卒業後にその人物の研究業績や諸能力を評価して採用を決める欧米先進国企業と異なり、国内の企業は青田買いを行い自企業へのインターンシップなどを奨励もする。そのため、大学3・4年生ともなると就職活動が優先され、腰を据えて研究課題と取り組んだり、将来不可欠な深い教養を修得したりすることは二の次となってしまう。大学院修士課程などでもその傾向は同じである。そう考えてみると、近年、総じて日本の大学教育の水準が劣化し、欧米先進諸国ばかりでなくアジア先進国の大学にも後れを取るようになってきているのも、必然の流れではあるのだろう。
 国立大学の独立法人化が進められたのと並行して、それまで厳格そのものだった大学設置基準法の規制が大幅緩和され、私立大学の新設や既存私大の学部増設が異常なまでに促進されたのも問題だった。それらの大学の教育内容など論外で、その殆どが国家官僚らの天下りの場や、直接の天下りが禁止されている各省庁傘下の団体への迂回路として一時的に身を寄せる場と化したからである。しかも、そんな実態をカモフラージュするため、新聞、雑誌、テレビなどの著名なメディア関係者を客寄せパンダ兼隠れ蓑とすべくしてそれら新設大学の教員として取り込み、巧みに大学設置基準法緩和政策に対する批判を封じもした。ある時期から大学教授・准教授等・講師などを称するテレビコメンテータなどが異常なまでに増加したのも、そんな隠れた背景があったからである。文科省主導による大学教員資格条項第5項の意図的拡大解釈を含めた一連の事態の詳細については、本連載記事の22年1月15日号~23年3月15日号における全7回の論考をご参照願いたい。

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