時流遡航

《時流遡航248》日々諸事遊考 (8)(2021,02,15)

(コロナウイルス・ワクチン開発問題についての考察――――③)
 国内の製薬企業各社によって一度はSPring―8内に組織された「蛋白質構造解析コンソーシアム」が2012年に完全解散されると、各製薬会社はこぞって軟X線専用放射光を用いたSBDDプロセスを海外の放射光研究施設に委託するようになりました。新薬創薬において最も重要な、ウイルス・細菌類の構造解析、さらにはその機能を抑制するために最適な抗体や化学合成物の探究検証プロセスを海外の研究施設に依存してしまおうというのですから、科学技術立国を自負する国の状況として尋常なことではありませんでした。
既述したように海外の先進諸国では、国策として生命科学や創薬研究専用の軟X線放射光施設の建設、創薬に不可欠な化学合成物データベースの構築などが着実に促進されてきていました。創薬を国家の基幹産業とするスイスなどでは、SLS(Swiss Light Source)という創薬専用の国営放射光解析施設やデータベースが整備され、製薬諸企業はそれらを自由に活用できるようになりました。実を言うと、SPring―8から一斉退去した日本製薬企業の殆どがSBDDプロセスの処理を委託したのは、そのスイスのSLSをはじめとする欧米の放射光施設だったのです。ただそんな状況が続くに伴い、当然それなりの問題や危惧なども生じるようになりました。日本の薬学研究者は国税や国内製薬諸企業による支援金により研究を進めているにもかかわらず、海外の放射光施設を用いることによってさらなる費用を要するほか、海外企業に貴重な研究情報を只同然で持っていかれる事態が起こるようにもなったのです。また、創薬の核心部であるSBDDプロセスを担当する優れた専門家を育成することができなくなるばかりか、国内に現存するその領域の優れた専門家が居場所を失い次々に海外へと頭脳流出するという状況にも至ったのです。
ただ、さすがにそんな実情を憂える声が国内創薬業界からも起こり始め、海外の放射光施設に依存することによって機密情報が流出するくらいなら、今一度製薬研究開発用のデータベースを構築整備し、SPring―8の施設を使えるようにしてほしいという要請がなされるようにもなりました。また、日本の製薬企業が国内の放射光施設を使用するのは当然のことではないかという反省の声なども上がるようになったのです。そして、そんな動きを契機として、2018年以降、改めて創薬産業構造コンソーシアムが組織される運びとなり、それ以降、海外の放射光施設を利用していた諸々の製薬会社が徐々にSPring―8に回帰するようになってはきました。しかし、その新たな体制にはまだ不十分な点が多々あることや、硬X線領域の分析能力では世界最高水準の能力を誇るSPring―8の諸施設といえども、創薬開発に直接関係する軟X線ビームラインの輝度や連動するデータベースの能力は海外の専用施設のそれに較べて格段に遅れをとっており、その点をどう強化し世界の趨勢に伍していくかは今後の大きな課題となっているのです
このように、現在の日本では、製薬諸企業がようやく国内施設での軟X線放射光やコンピュータ・データベース利用による創薬を目指しコンソーシアムを再組織し始めたばかりで、ファイザーなどのような世界最先端の一大製薬企業なみに最新SBDD技術を駆使して創薬に挑む態勢は、残念ながらなお整っておりません。それゆえに、新型コロナウイルス専用のワクチンをごく短期間で開発するなど不可能ですから、我が国は海外で開発されたワクチンを莫大な対価を支払って大量に購入し、その効力に頼るしかありません。ここにきて国内でも海外で開発されたコロナワクチンの製造やその治験に協力する製薬企業が現われてきたようですが、いずれにしろ当面は輸入ワクチンに依存するしかないでしょう。
(東北放射光施設の持つ意義は)
 ただ、そんな趨勢のもとにある国内製薬業界の厳しい現実解消のためにも、また生命科学や物質材料科学の発展のためにも不可欠な軟X線放射光施設の緊急性を認識し、その施設実現に奔走した識者もありました。そしてそんな人々の尽力がようやく実り、何とか2年後の稼働開始予定にまで漕ぎ着けたのが東北放射光施設にほかりません。この新施設建造計画の一連のプロセスに関しては、5年近く前に執筆した本稿「時流遡航」の第135回(2016年6月1日号)において、「東京五輪より重要な東北放射光施設の建設」というタイトルのもと、その詳細を紹介したことがありました。ここでその全容を繰り返し述べるのは控えておきますが、せめてその要旨くらいは記述しておくことに致しましょう。
 かつて国内においては、硬X線領域での研究を優先するあまり軟X線領域での研究が次善的に評価されてきたふしがありました。東大では以前から軟X線領域の高輝度光源造設が画策されていましたが、財政的な理由で05年頃にその計画は中止となりました。だがその計画が頓挫した直後、軟X線分光科学が国際間で飛躍的に発展し、科学技術研究における軟X線放射光の機能と能力が重要視されるようになりました。「軟X線革命」とでも呼ぶべき事態が全世界で起こったわけなのですが、科学技術立国を自負する日本は、意外なことにその革新競争において後塵を拝する状況に陥ってしまったのでした。軟X線領域の放射光が世界的に脚光を浴びるようになったのは、軟X線によるナノレベルの物性解析技術が驚異的に進展し、国際競争の熾烈な医薬医療産業、エレクトロニクス産業、食品産業、有機EL産業、触媒産業、エネルギー産業などの新製品開発と直結したからでした。
 そんな世界の趨勢にも配慮し、機能改良計画なども持ち上がったSPring―8でしたが、軟X線専用施設ではないだけにその機能や光源数においては海外の諸施設に遥かに劣り、日本の軟X線放射光科学が大きな遅れを被ることは必然でした。軟X線領域専用の東北放射光施設建設が急務として浮上したのはそのような切迫した事情あってのことだったのです。そして産学一体のかたちをとるそのプロジェクトの責任者となったのが、元SPring―8副センター長で2016年度から東北大学招聘教授となった高田昌樹氏なのでした。高田氏らは施設建設費の初期見積約300億円のうち、まず150億円を民間企業に先行投資してもらい、そのうえで残り150億円の公的資金導入を国に促すよう計画しました。その前提として、学術界の先端光科学研究者と協賛企業とに社会のニーズに応じた1対1のタッグを組んでもらい、誕生した諸々のその種のタッグ間で目的実現のため競合してもらう「コウリション:Coalition」という制度の導入を試みました。オリンピックで手一杯の文科省などは、当初、同施設への国費投入を極力避けたい意向のようでしたが、最終的には国も出資に応じ、2023年に稼働予定の運びとなった次第です。東京オリンピックの開催可否に深く関わるコロナウイルス・ワクチンの海外依存が、軟X線放射光施設計画への投資を惜しんだ結果であるというのは何とも皮肉な話だというほかありません。

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