(米国一流大学の諸システムに想いを廻らす)
今年2月のこと、高校野球で大活躍した花巻東の佐々木麟太郎氏が米国のスタンフォード大学に進学するというニュースでもちきりになった。スタンフォード大学はハーバード大学やマサチューセッツ工科大学などと並ぶ米国屈指の最高学府であるばかりでなく、世界でもトップクラスと評価される大学であるだけに、大きな話題となったのは当然のことだろう。しかも、4年間で通算5000万円にも及ぶ学費一切が免除されるというのだから、その話が日本国民に与えた驚きは尋常ではなかった。現在の日本にあっては、たとえ野球と学業の両面に稀有な資質をもつ高校生がいたとしても、総合評価に基づく推薦入学というかたちで東京大学や京都大学に進学することなどまずもって不可能に違いない、
米国の一流大学に在籍した経験があったり、それらの大学入試制度に通じていたりする日本人なら以前から熟知していたことではあろうが、同国の新入生選抜システムは元々日本のそれとは大きく異なっているようだ。近年でこそ、東大などでもごく一部の新入生を特別枠の推薦入学制度によって採用するようになってきたようであるが、日本の場合、有名国立大学の場合には、専ら一般入試で新入生を選抜するのが従来の習わしであった。そこには日本社会ならではの「平等性の概念」が強く働いていたからでもあるが、昨今ではそんな一般入試にも経済格差が大きく影響するようになり、平等性が失われつつあることが問題となってきている。また、これも以前から指摘されてきたことであるが、暗記力依存の表面的知識量の多さのみで合格者の決まるペーパー入試では、極めて特異な能力や個性を具えもつが、一般入試には不向きな人物が振り落されることは必然であった。
そんな状況に鑑みれば、佐々木麟太郎氏のスタンフォード大学進学関連ニュースを契機に、日本のそれとは理念的にも異なる一面をもつ米国の入試制度を知っておくのも一興だろう。また、その制度について今後日本が見習うべき点があるとすれば、それはそれで冷静に受け止めていくべきだろう。もちろん、両国の国情の相違を考慮すると、従来の日本の制度にもそれなりの利点はあるはずだから、そこは慎重な対応が求められもしよう。
(学生をあらゆる面から調査)
米国のトップクラスの大学は、昔から個々に自立した運営方針に立脚してきているため、どこも独自の伝統的な入試制度を具えもっている。各大学によってその適用割合に幾分の相違はあるものの、どこも三様の選抜方法を併用し、多様な人材の確保を図る配慮がなされている。
まずは、全合格者数の一定割合を全米統一検定試験の成績を基に選抜する。当然その選抜試験では成績上位者ほど有利なわけで、その点に関しては日本の大学入試制度と共通するものがあると言ってよい。次に登場する合格者選考法は、同じく一定割合を、ある学術分野の研究や特殊技能に稀有な才能を有する者を採用する方法、日本風に言えばいわゆる「一芸入試」による選抜システムである。そもそも、ある時期から日本の大学などでも一芸入試が採用されるようになったのは、米国などのそんな選抜法に倣ったからにほかならない。そして残るひとつが、その人物の豊かな人間性や優れた人格を多面的かつ総合的に評価したうえで特定数の合格者を決めるという、社会的資質重視の選定手法である。
だだ、ここで我われが注意しなければならないのは、米国トップクラスの大学などにおける後者2枠の合格者選抜法は、現在日本国内の大学で遂行されるようになっている推薦入試や、一芸入試的な側面を具えもつ総合選抜入試(いわゆるAO入試)とは本質的に異なっているという事実である。国内の推薦入試や総合選抜入試では、形式的で通り一遍な応募書類や、ごく表面的な短時間の面接のみを通して選考が行われているが、米国の大学の場合そうではない。慎重かつ厳格な伝統的選抜システムに基づいているからなのである。
米国の一流大学には、特定学術分野の研究や特殊技能に稀有な才能を有したり、豊かな人間性や優れた人格を具えたりしている人物を選抜すべく、その制度専属の組織的チームが存在している。それらのチームの専門家は数カ月にも渡って、入学志願者らの詳細な能力調査や身辺調査、さらには長期にもわたる徹底した面接調査を実践し、そのうえで合格者を選定する。またその選考過程では、国際的に張り廻らした人材探知ネットワークを基に、他国に散在する特異な才能に恵まれた人物に大学側からアクセスし、好条件を提示して自大学への入学を積極的に勧誘する手段などもとられる。佐々木麟太郎氏のスタンフォード大学への進学などは、そのような背景があってこそ実現したものに違いない。
それら三様の選抜法を介して合格した学生らは、大学に進学後はそれぞれの長所を生かしながら多様な交流をもって相互に扶助し合い、その一方では互いに切磋琢磨を繰り返す。そして、極めて厳しい一面はあっても十分に恵まれた学術環境のもと、未来に向かってそれぞれの才能を磨き上げ、大きく開花させていく。大学側も常にそのような展開を想定しながらその学術研究体系の運営を図っているから、大学入学後の体制の甘すぎる日本とは大違いなのである。端的に言えば、総じて「大学まで」の思いが強い日本と、「大学から」の理念が浸透している米国などとでは、高等教育に対する考え方に大きな差違が生じてもいるのだ。大学入学後に広く深い教養を身に付けたうえで、はじめて医学部その他の専門研究分野への進学が許される米国などの大学制度は、日本のそれとは異質なものである。
(両輪駆動が強みの米国の大学)
あまり知られてはいないが、米国の大学は高度な学術研究に専念するスタッフ陣と、学内に蓄積された応用技術をベースにビジネス的な業務展開に専念し、大学のアピールや多大な運営資金の獲得に貢献するスタッフ陣とに分かれている。まさに車の両輪的な組織構成のもとに大学運営が実践されているわけなのだ。在校生の支払う授業料や国からの補助金はそれなりあるものの、大学独自のビジネス展開によって稼ぐ資金や、各種業界からの莫大な寄付金、支援金は大学のレベル確保とその維持発展にとっては不可欠なものである。後者のスタッフ陣が的確な活動を展開することによって多額な運営資金を獲得することができると、それによって、大学本来の業務を担う前者のスタッフ陣は経済的なことなどを気にすることなく、それぞれの専門研究に邁進することができる。前述した大学入試担当のチームは後者のスタッフ陣の一角を形成していると思われ、佐々木倫太郎氏に同チームが目を付けたのも、先々の彼の飛躍とそのアピール力を睨んでの算段があってのことに違いない。佐々木氏に莫大な奨学金が供せられるのも、そんな背景のなせる業なのだろう。
大変ではあろうけれども、佐々木氏には、純粋な学業面でも精進して欲しいと思うし、将来米国球界で大成し、さらには現役を辞したあともスタンフォードで修得した文化的諸教養を最大限に活用しながら、国際人を目指す人々の鏡としてその人生を貫徹してもらいたい。