(次世代放射光施設「ナノテラス」の稼働を祝う)
今から8年前の第135回(16年6月1日号)の本欄において、当時、まだそのプロジェクトが起動し始めて程なかった東北放射光施設建設問題について述べたことがある。国内には97年に稼働を開始し、総合的機能では現在でも世界最先端の高機能を誇るSPring―8や、その付属施設で、硬X線領域(高エネルギーの極超短波領域)対応の超高性能X線自由電子レーザー・SACLAなどの施設が存在している。だが、近年に至り、国際間においては、国内のそれら高機能な先駆的施設でさえも十分には対応できない波長領域の有意性が高く評価されるようになってきた。そのため、問題の波長領域に焦点を絞って推進された新プロジェクトこそが、その東北放射光施設建設にほかならなかったのだ。
光線の波長には赤外線や可視光線から極超短波の硬X線まで、長短さまざまな波長領域があるのだが、その中のひとつに紫外線域と硬X線域とに挟まれた「軟X線領域」と呼ばれる波長帯が存在している。近年、世界の先進諸国ではその軟X線領域の放射光の機能を特別に重要視する「軟X線革命」なる動きが起こり、欧米諸国のほか、中国、台湾、ブラジルなどでも次々と同波長領域専用の放射光研究施設が建設されるようになっていった。
軟X線領域の放射光が世界的に脚光を浴びるようになったのは、2010年代に入ってから、軟X線によるナノレベルの物性解析技術が飛躍的に進展したからである。その成果のゆえに、基礎物理化学、生命科学、物質材料科学、環境科学などの研究に極めて斬新かつ画期的な展開が期待されるようになってきた。また応用面でも、その技術は、国際競争の熾烈な医薬医療産業をはじめ、エレクトロニクス産業、食品産業、有機EL産業、自動車産業、触媒産業、エネルギー産業、ロボット産業などでの新製品開発促進と直結していることが明らかになったのだ。世界の先進各国が一刻を争って軟X線放射光施設を建設し、急遽その施設での研究促進を図ろうとしたのは、そのような背景があったからなのである。
兵庫県佐用町にあるSPring―8は全波長領域の光線に対応可能ではあるのだが、軟X線革命の流れに乗って世界各地に建設された当該波長領域専用の放射光施設の生み出す光波の輝度は、SPring―8のそれの100倍をも超えるものである。軟X線領域の先端光科学研究にとってその能力差は無視し難いものであったので、国際的に後れをとることのないようにと立案されたのが、ほかならぬ東北放射光施設のプロジェクトだったのだ。そして、そのプロジェクト推進にリーダーとして大きく貢献したのが、現東北大学招聘教授で、光科学イノベーションセンター理事長を兼務する高田昌樹氏であった。
東北大学に赴任する以前、SPring―8の副センター長の任にあった高田氏とは、日本学術会議第3部会で愚身の行ったささやかな講演が契機となって親交を結ぶようになり、その後、同氏から、SPring-8学術成果集の制作に関わって欲しいとの要請を受けるに至った。そのため、非力なこの身に鞭打って、「SPring―8学術成果集――夢の光を使ってサイエンスの謎に挑む」の統括制作者、兼、執筆・編集責任者を務めることになった。また、その任務を通して放射光科学分野についても幾らかの知見を身につけることができもしたため、近年、高田氏が深く関わってきた東北放射光施設建設プロジェクトの推進状況にも、少なからず関心を抱き続けてきたようなわけであった。
(軟X線放射光施設ついに実現)
東北大学に移り、同プロジェクト遂行のリーダーとなった高田氏は、300億円超という当該施設の建設見積費のうち、まずは半分の150億円を民間企業に先行投資してもらい、そのうえで残り150億円余の公的資金導入を促そうという戦略を立てた。当時の安部政権のもと、数年後に迫った東京オリンピックへの対応で手一杯だった文科省や財務省は、副次的事業にも見える東北放射光施設プロジェクトへの国費投入などは極力避けたい意向であったらしい。東京オリンピック関連事業の無駄ともいえる、膨大な国公費依存の実態を知るにつけても、この国の政策の愚かさを痛感するばかりであったが、そんな状況を睨んだうえで高田氏らが採った対応策は実に賢明かつ合理的なものであった。
そのプロジェクト推進の大前提として、諸科学技術や先端光科学の専門研究者と協賛企業との間で社会的ニーズに応じた1対1のタッグを組んでもらい、誕生した多数のその種のタッグに、それぞれの目的実現のために精進してもらう「コアリション(有志連合)」という概念を構想した。それは、民間企業にとっては懸案となっている課題を、その道の専門家との相互協力のもとで解決することにも繋がる優れたアイディアであった。その結果、施設建設に出資する多数の企業と主要国立大学、私立大学、国立研究所などの研究者などが密接に連携することになり、その有意性を高く評価した民間諸企業からの先行投資も順調に目標額へと到達した。また、そこに至って、国のほうもようやく重い腰を上げて多額の国費を投入することを決定、国の傘下にある量子科学研究開発機構に東北放射光施設を組み込むかたちでそのプロジェクトは一気に促進されることになったのである。
SPring―8での長年の研究を通じ蓄積された諸々の研究成果や諸技術を最大限に導入活用するかたちで、東北大学青葉山キャンパスに建設された同施設は、予定よりも大きく遅れはしたものの無事完成、この4月から本格稼働するに至った。その施設名もあらためて次世代放射光施設「ナノテラス」と命名され、各種メディア上でもその意義や将来性が広く紹介されるようになってきている。国内において、この種の大規模な放射光研究施設がアクセスも便利で研究生活環境も整った大都市部に設けられたのは初めてのことであり、今後の展開にも大きな期待が寄せられている。SPring―8の場合には、世界最先端の研究施設であるにもかかわらず、地理的な理由から極めてアクセスが悪く、また長期的滞在やそれに伴う必要施設の確保にも何かと不備があることが問題とはなっていた。
23年12月9日、高田氏よりナノテラスで軟X線ビーム初発光に成功した旨のメールが届いた。同氏らの長年にわたる尽力が実って実現した、世界でも最先端を行くナノテラスの登場に、心からの祝福メールを送信もしたような次第である。このナノテラスは、電子を打ち出し加速する全長110mの直線状施設と、加速された電子群を超強力ネオジウム磁石列によってさらに反時計回りに周回運動をさせ、その周回円の接線方向へと軟Xビームを発生させる全周349mの円形加速器から成っている。当然ながら、太陽光の10億倍の輝度をもつ軟X線ビームの照射のもたらすナノメートル(100万分の1ミリ)レベルの極微世界の観測データを高速処理するスーパーコンピュータとも連結している。近年、国際的に遅れ気味だった薬学研究分野などにとっては、起死回生にも繋がる重要施設ともなり得るだろう。祝ナノテラスである。