時流遡航

《時流遡航323》 日々諸事遊考(83) (2024,04,01)

(能登半島の大地震被災地域へと思いを馳せつつ)
 今年の元日に能登半島一帯が震度7をも超える大地震に襲われ、甚大このうえない災害を被ってから3ヶ月が経過した。被災者の方々のために何かしらお役に立ちたいという気持ちだけはあっても、気力も体力も衰え果てた老身とあっては、最早まともに貢献できることなどありはしない。世の片隅で清貧な生活を送るかたわら、心を痛めながら被災地の一連の状況をじっと見守ったり、雀の涙どころか蟻の涙にも及ばない程度の額の硬貨を、申し訳ないという思いに浸りながらそっと募金箱に挿入したり、ウエッブ上の募金システムを介して赤面するしかないほどに些少な額を寄付したりするくらいが関の山である。
 まだ気力も体力もあった東日本大震災の直後には、難儀覚悟で凄惨な状況に陥っている岩手・宮城・福島の沿岸部一帯に出向き、その折の詳細な体験記を本誌の11年9月1日号~ 12年3月15日号において14回にわたって連載した。だが、今般の能登半島地震ともなると、今更この老体が当地に出向いたところで、復旧作業に専念する方々に多大な迷惑をかけるだけのことなので、遠くからその成り行きを見守るほかはない。既に、公的な救援組織や各種ボランティアグループが現地入りし、被災者の救済や被災地の復旧作業に真摯に対応中のようなので、それら一連の活動が十分に巧を奏すことを心から願ってやまない。
 幼児期から中学卒業時まで鹿児島県の離島で育ったこの身は、例年のように来襲する猛烈な台風や、それに伴う激烈な暴風雨、雷雨、高潮、河川氾濫などに遭遇してきた。時代柄もあって当時の離島の諸々の自然災害対応システムは極めて脆弱だったので、その結果生じる漁船類の損傷、家屋の浸水や流失倒壊、倒木や道路崩壊、長期停電とそれに伴う蝋燭・ランプ生活、食料不足などは幾度となく体験もしてきた。当時その島には現在のような上下水道施設などは皆無で、生活用水は全て地中から釣瓶で汲み上げる井戸水に頼っていたから、台風の直後などは、外部から大量に流入した雨水や木の葉、苔類、昆虫類などの混じった水を当然のように用いていた。ただ、長年のそんな井戸水生活で培われた基礎免疫力の高さの所為か、島民の誰もが体調に異変を来たすようなことは殆どなかった。
 話が些か昔話にずれ込みはしたが、ともかくもそんな台風銀座とでも称すべき離島育ちの身としては、自然の猛威やそれに伴う自然災害というものの凄まじさだけは、身にしみて厭というほどによくわかる。それゆえに、今回の大地震による能登半島一帯の被災者の方々のご苦悩のほどは想像に難くないから、最早何の役にも立てない己の無力さに苛まれるのもひとしおというわけなのである。ただまあ、どんな人間であっても、他者のためにできることにはおのずから限界というものがある。様々なボランティア活動を行う人々に対して、「あなた方のやっていることは偽善行為だ」などと冷徹な批判を浴びせかける者たちもこの世には少なからず存在する。しかし私は、以前から、人助けというものは偽善であっても少しも構わないし、個々の人間がその時々の状況下で無理なくできる範囲のことをすればよいのだと考えるようにしてきている。ささやかな偽善のネットワークこそが相互扶助の原点であるからにほかならない。偽善こそは福祉活動の原動力と開き直ってしかるべきだろう。
(「かなしみ」とは灯る命の証)
 昔日の己のささやかな体験を能登半島の甚大な被災状況に重ね見つつ想いを廻らせるうちに、悲願にも近い一筋の光明がかすかに浮かび上がってくるような気がしもした。自然災害に直面した地域の人々の間に起こる相互扶助の精神や連帯意識の高まりというものは、平穏な日常生活の続く状況からはとても想像のつかないほどに大きく、かつ極めて感動的でさえもある。無慈悲そのものの自然災害に起因する救い難い喪失感の直中にあるにもかかわらず、その痛みを超えて人間本来の強い連帯感に目覚め、ひたすら相互に支え合おうとする人々の姿は、実に気高く、またこの上なく尊いものだとさえ言ってもよいだろう。そして、今まさに、そのような状況が能登半島の被災地域一帯では繰り広げられているに違いない。深いかなしみというものは人々の心を強い絆で結び付けるものなのだ。
 かつて私は「還りなき旅路にて」(木耳社)という旅歌随想集を刊行してもらったことがある。実を言うと、その著作の冒頭部に記載されている「かなしみも 灯る命のあればとて 夕冴えわたる能登の海うみ」という一首は、今から40年ほど前の83年に能登金剛巌門一帯を訪ねた際、西方海上に沈む夕日を眺めつつ、その折の感慨深い想いを詠み込んだ歌であった。まさかその風光明媚な能登の地で40年後のしかも元日において大地震が起こることになろうとは想像などつくはずもないことではあったのだが……。
 この能登金剛の巌門を訪れたのは、ある晩秋の夕暮れのことで、磯辺に降り立つと、遥かな水平線に向かって真紅の夕陽が大きく傾いていくところだった。風は止まり、眼前に広がる西能登の海面はどこまでも凪ぎわたっていて、激しく岩を食む冬場の日本海の荒波からは想像できないほどの静けさに包まれていた。西の空は荘厳な茜色に染まり、赤々と燃え立つ太陽が水平線に近づくにつれて、海面には赤紫色と黄金色の光の帯が煌き走った。
 ほどなく夕陽が水平線の彼方に姿を隠すと、西方の天空にしばし神秘的な黄道光が輝き走り、やがて空も海も息を呑むような黄昏色に覆われていった。刻々と彩りを変えていく空も海も夕陽も、そして黄昏の色も、さらにはそのあとに続く紫紺の空で輝きはじめた星々も、全てのものがかなしいまでに美しかった。私の立つ磯辺の岩を絶え間なく洗う夕潮の囁きもまた、深い哀調を湛えて切々と胸に迫り来るのだった。かなしいまでに夕冴えわたるその能登の海を、私は迫る宵闇をものともせず、いつまでも独りその場に佇み凝視し続けた。そして、この「かなしさ」や「さびしさ」は何故生じてくるものなのだろうかと考えもしてみた。自然の景観そのものはもともと無心なものである。それを「かなしい」とか「さびしい」とか感じるのは自然に対峙する人間の心があるからにほかならない。この大宇宙の滴とも言うべき私という人間の体内に灯る命の火があるからに違いない。
 たとえそれが深い絶望につながるかなしみであったとしても、いや、むしろ、そんなかなしみであればあるほどに、そう感じる人の体内の奥底では命の火が激しく燃え盛っているに相違ない。深いかなしみが命の灯火の輝きの証であるならば、「かなしみ」や「さびしさ」をより多く背負う人間ほどいまを激しく生き抜いているのだと言えないこともない。「そんな人間こそほんとうはより命を輝かせて生きていると言えるんだよ」という、無言の励ましの言葉をその夕冴えわたる晩秋の能登の海うみは私に贈ってくれているように思われてならない――まぁ、そのような深い想いを詠み托した歌だったのであるが、その折の心象風景が、今かなしみを超えて懸命に生きる能登半島一帯の人々の姿と重なって見えもしてくるのだ。

カテゴリー 時流遡航. Bookmark the permalink.