時流遡航

《時流遡航309》日々諸事遊考(69) ――しばし随想の赴くままに(2023,09,01)

(トリチュウム含有水の海洋放出問題を考える)
 福島第一原子力発電所の汚染処理水海洋放出に関し、その是非が国内外で問題になってきている。福島第一原発の事故原因は、東日本大震災という自然災害と同原発を運営管理してきた東京電力の不備にあるとして、その延長上にある汚染処理水問題に背を向けることは容易である。だが、ここは日本社会の一員として冷静にその論争の背景に目を向け、今後自らの取るべき道や見解について検討を試みてみたい。
 福島第一原発の汚染された地下流水を化学的に処理し各種放射性物質を徹底除去したものが、所謂汚染処理水に他ならない。だが、その処理水からも完全除去できないのが、水素の同位体トリチュウムなのだ。水素には陽子1個と電子1個からなる基本的水素のほかに、陽子1個・中性子1個の原子核と電子1個からなる重水素と、陽子1個・中性子2個の原子核と電子1個からなる三重水素が存在する。重水素と三重水素は水素の同位体と呼ばれ、重さはそれぞれ基本の水素の2倍、3倍であることが知られている。なお重水素のほうはデューテリウム、そして三重水素のほうがトリチュウムと呼ばれる問題の元素である。
 デューテリウムもトリチュウムも水分子を形成して自然界には一定量存在しており、微量の場合にはとくに危険なものではない。ただ、トリチュウムは放射線の一種であるβ線を放出する性質を持つため、高濃度の場合には放射性物質として慎重な対応が求められる。トリチュウムは原子炉内の核分裂反応過程においても生成されるので、世界中のどこの原子力発電所も、排出冷却水中の濃度を安全基準値以下に希釈したうえで、それらを河川や海中に放出している。ただ、震災によって炉心部が破壊されメルトダウンを起こした福島第一原発の場合は、大量に流れ込む地下水が直接核燃料に接触する。そのため、その地下水中の各種放射性物質の除去処理をしたうえで、技術的に完全除去困難なトリチュウムのみを含む水を直ちに海中には放出せず、敷地内に設けた多数のタンク内に保管してきた。
 だが、その専用タンクの設置も限界に達したため、国際原子力機関IAEAの厳格な審査と監督のもと、安全基準を遥かに下回る濃度にまで希釈したうえで、徐々に海中放出しようという運びになった。純粋に科学的見地に立って考えるなら、IAEAも認可しているこの方策に問題はない。放出しないで済むものならそれに越したことはないが、これ以上のタンクの増設は不可能だし、地震などで多数のタンクが破損されたりしたら却って悲惨な結果になる。風評被害を恐れる地元の漁業組合などからは処理水放出に反対する声が上がっているが、ここは安全性を裏付ける科学的根拠に基づき、現実的な最善策を講じていくしかない。できるなら国際的にも著名な科学者などが表に立ち、地域漁民らに対して、希釈されたトリチュウム含有の処理水放出の安全性について丁寧な説明を行って欲しいものである。昨今、政府との対立が問題となっている日本学術会議なども、この際、何かしらかの見解を提示するなりして、放出を危惧する漁民らを少しでも安心させてもらいたい。
 さらにまた、それ以上に重要なのは一般国民、なかでも東京電力管轄下にある関東圏の住民の対応だろう。東京都民などが福島原発で生み出される電力の恩恵に与っていたことは紛れもない事実である。かつて東京都などが東京電力に投資を行い、それによって得た配当を都政に活用したことなどを思えば、たとえ間接的ではあるにしろ、都民の誰もが原なるものに関係していたことは間違いない。そうだとすれば、福島第一原発の一連の事態の収拾や廃炉の実現に向かって、何らかの協力をすることを惜しんではならないだろう。
 科学的には問題なく、またそれ以外により廉価で現実的な解決策もないトリチュウム含有水放出策だが、直接的な風評被害を恐れる地元漁民の心境は十分理解できる。そんな人々を安心させるためには、今こそ誰もが進んで福島産の魚介類を購入するべきだろう。ささやかながら、私自身も率先して福島産魚介類を食するように努めたいと思う。非科学的な風評被害から地元漁民を守るためにも、ここは国民の皆が連携して真摯に対応するしかないだろう。
 中国や韓国野党などは、福島原発の処理水放出によって同国周辺の海域が汚染されると主張して自国民の不安を煽り立て、強硬に福島での処理水放出に反対し続けている。しかし、科学的な観点に立てば何とも奇妙な話である。IAEAもその安全性を保証する低濃度のトリチュウム含有水が福島沖に放出された場合、直ちに海洋水によって一段と希釈されたうえに、その殆どは日本海流に乗って東方遥かに広がる太平洋中央部へと運ばれる。中国や韓国が面する東シナ海や日本海にそれらが直接流れ込むわけではない。たとえ地球レベルの海洋水の大循環によって遠い将来その海水のごく一部が東シナ海や日本海に到達するとしても、そのトリチュウム濃度は自然な海洋水のそれと全く変りがないはずである。
 そうしてみると、中国や韓国野党筋の主張は感情論そのもので、科学的根拠に基づく論理性は皆無に等しい。もちろん、そんな主張が喧伝される背景には、安全とされる微量のトリチュウム含有水放出に便乗し高濃度の放射性汚染水なども放出されるのではないかという、日本の国策に対する懐疑論があったりもするのかもしれない。また、ごく一部のメディア関係者などのなかからは、自らの発言力をアピールするため、風評被害に怯える地元漁民に寄り添う態度を取りながら、何の根拠もなく科学的見解を批判したり否定したりする者も現われよう。そもそも、中国や韓国の漁船などは原発周辺の水が流れ込む日本列島東方の太平洋で大量の魚類を捕獲販売している。それら一連の流れを中国や韓国の当事者らはどのように考えているのだろうか。日本政府や主要メディアの関係者らは、そのような状況を冷静沈着に分析検討したうえで、中国や韓国からの批判に対し毅然とした科学的論陣を張るよう心掛けてもらいたい。単なる感情論の応酬だけでは事態は悪化するばかりだろう。
(重水素・三重水素と核融合炉)
 なお、これは余談になるが、重水素(デューテリウム)と三重水素(トリチュウム)とは相互の原子核を融合一体化し、安定したヘリウム原子へと変容する過程で膨大なエネルギーを放出する。太陽の表面で起こっている、いわゆる核融合反応がそれなのだが、地球上でその反応を起こそうとすると想像を絶する超高圧・超高熱の状況をあらかじめ生み出しておかねばならい。そこで原子爆弾をその起爆剤として用い、瞬時に熾烈な核融合反応を起こすようにしたものこそが他ならぬ水素爆弾なのである。現在ではその核融合反応の生み出すエネルギーを平和利用するため、徹底した安全制御が可能な核融合炉実現を目指し、先進諸国で高度な基礎研究が進められている。水爆と同原理だと言うと誤解を招きそうだが、従来の原子炉とは異なり放射性物質非排出の核融合炉の安全度は極めて高い。実現はまだ先のことになろうが、同炉がもたらす膨大なエネルギーは、人類の生活環境を一変させるに違いない。

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