時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――その実景探訪(14)(2019,04,15)

(コンピュータの限界と人間の立ち位置について)
 現代のコンピュータ界の実状を大局的に展望してきましたが、その締め括りとして、昨今よくその研究分野で用いられる「自律的」という言葉と、我われ人間が自らの日常的行動などについて用いる場合の「自律的」という言葉の相違について述べておくことは必要でしょう。過日も国会や諸メディアで自律的に機動するAI搭載兵器の危険性などが取り沙汰されていましたが、そこで言う「自律的」とは、あらかじめ人間がその兵器のコンピュータ制御体系に組み込んだプログラムに従って自動的に機能するという意味に過ぎません。精神的に自立した個々の人間がその自由意志と自主判断をもって自らの行動を適切に制御することをいう「自律的」とはまるで意味が異なっているのです。SF映画に見るような、人間同様の独立した精神をもち、未知の事象を含む折々の状況に応じて柔軟かつ自在に行動するAI搭載マシンの登場は、なお遠いフィクションの世界の話です。
 いま我われにとって最も重要となるのは、人間本来の「知能」と、人工知能と称されているプログラム化された「知能」との現段階における大きな違いを的確に認識できる能力なのです。そのような観点に立てば、人間があらかじめ組み込んでおいたプログラムどおりに機動する不完全な「似非AI兵器」の怖さなども十分に認識できることでしょう。一定の条件が満たされたら自動的に機動するようにプログラミングされているような「自律的兵器」の場合は、刻々と推移する国際情勢やその背後に潜む情報を人間と同様に分析判断し、攻撃そのものを自制したり、そのレベルを抑制したり、戦闘そのものを自らの意志で放棄したりするようなことはできません。その制御プログラムを構築しAI兵器と称される武装システムのコンピュータに組み込むのはあくまで人間なのですから、当然その倫理的責任をAIに転嫁するわけにはいきません。端的に述べるなら、怖れるべきはAI搭載兵器そのものではなく、あくまで人間というこの厄介至極な存在にほかならないのです。
 既述したように、人間の認知能力や思考力、諸々の身体的機能などを飛躍的に拡大発展させる「オーグメンテーション・ツール(AT)」としてのコンピュータ技術の発展自体は高く評価されるべきでしょう。ただ、この人間社会を維持するにあたり、コンピュータにとって可能なことと不可能なことの識別、より明確な言い方をすれば、我われ人間にしかできないことは何なのかを現時点において再認識しておくことは肝要です。そうすれば過度のAI恐怖症に陥ったり、逆にまた「AI教」の信仰へと節度なく取り込まれたりすることもなくなります。精神的な意味でも物理的な意味でもAIを含む全IT体系を制御しているのはなお我われ人間なのであり、人間なくしてはそれらには何の存在意義も存在しないのだということをこの際あらためて熟知しておく必要があるでしょう。
(人間にしかできない事柄とは)
 たびたび論じてきたようにAI自体は新たな言語を創造することはできません。日常的な言語はもちろん、数理科学上の各種記号やプログラム用言語を含めて、言葉というものは、それが創出される以前に生命体の内奥で機能する諸々の直観や五感の捉えた心的事象が、音声表現や文字記号表記の意識的概念として表出されたものなのです。それゆえ、もともと生命体などではないAIは、人間が教え込む各種言語を学習し、人間が指示する諸規則に従って高速かつ自在にデータ処理を行い何らかの表現や結果を導き出せはするのですが、自らそれらに意味を持たせることはできません。感情や意識をもたないコンピュータには、「嬉しい」とか「悲しい」とかいったごく初歩的な言葉さえ自力では生み出せないわけで、ましてや深い思想や考究の概念を表す新たな言語を創造し、その意味付けをすることなど不可能なのです。独自の言葉を創造し対話するAIが登場したなどと報道されたりしていますが、それは、そんな風に演じさせるプログラムが組み込まれているからに過ぎません。
 IT技術の研究者の間で以前からよく取り沙汰されている有名な問題があります。それは任意の四角形ABCD内の点Pのうちで各頂点までの距離の和、PA+PB+PC+PDの値が最少となるような点Pはどこであるかをコンピュータに定めさせるという課題です。人間なら中学生でも容易に解決できてしまいそうな問題で、正解は2本の対角線ACとBDの交点に点Pがあるときとなるのですが、コンピュータは自力でそれを解くことができません。その理由はこの問題の根底に直線の定義が深く関係しているからなのです。
我われ人間は「直線とは2点間を結ぶ最短距離を表す線分及びその延長をいう」と定義するわけですが、コンピュータ自らがそんな定義をすることは不可能です。そもそも、この種の問題を解決する際に我われが用いる「三角形の2辺長さの和は他の1辺の長さよりも大きい」という定理自体が、直線の定義の延長上にある命題概念でもあるのです。
そこで百歩譲って四角形内の任意の点Pと各頂点とを座標として表示し、三平方の定理を用いてPA、PB、PC、PDの長さを求め、それらの和の値を比較してその最小値を導き出すプログラムを組み込んでやったとしてみましょう。それでも問題を解決することはできません。なぜなら四角形内には無限個数の点Pが存在しているわけですから、如何なるスーパーコンピュータをもってしても、それら無限個の点について演算を行い算出した数値の大小を比較確認することなどできるはずがないからです。基本概念の定義が深く絡むためコンピュータには対応不可能なこの種の問題は数多く存在しています。
 最後にいまひとつ少々笑える話をしておきましょう。古今和歌集の中に藤原敏行が詠んだ「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」という有名な歌があります。周知のように、「あたりの様子を目にするかぎりでは、まだ秋が到来したようには見えないのだけれども、吹きわたる風の音に耳を傾けると、ああ、もう秋になってきているのだなと気づかされ、思わずはっとすることでございます」というのがその表向きの解釈です。しかし巷に伝わる一説によると、この和歌にはいまひとつ裏の意味があるらしいのです。その真偽のほどは定かではありませんが、それはなんとも興味深い話です。
この一首、平安貴族らが好んだ歌合せの席で、詠者の敏行がある女性を挟んで三角関係にあった対面の男にぶつけた皮肉交じりの強烈な歌だったというのです。その裏の意味とは「私と貴女との間にはまだ飽き(倦怠期)がきたようには見えないのだけれど、巷の噂によれば貴女のもとには別の男が通ってきているらしい。そう言われてみるとはっと思い当たる節があり、愕然とすることです」だったのだとか……。AIにこんな歌の裏解釈を求めたり、そんな含蓄のある歌を詠ませたりすることなど到底できそうにもありません。

カテゴリー 時流遡航. Bookmark the permalink.