(コロナウイルス・ワクチン開発問題についての考察――――②)
従来なら、新型コロナウイルス対応の新ワクチンに象徴されるような新薬の創成を実現するまでには少なくとも5年程度の期間は必要となるものと考えられてきました。ところが近年は先進科学技術国での製薬技法は飛躍的に向上し、各種の新薬開発期間やその安全性確認過程が驚くほどに短縮されてきています。その効力と安全性の程度には相対的な違いはあるにしろ、米英独仏ばかりでなく、中国やロシアでも新型コロナウイルス用ワクチン接種が始まっている事実そのものが、おのずからそんな状況を物語りもしています。そして、それら一連の創薬開発過程を支えているのが、ほかならぬ放射光解析技術やそれと連動する超高度なコンピュータ演算処理システムというわけなのです。
兵庫県佐用町にあるSPring―8やSACLAは世界屈指の大型放射光施設のひとつで、極超短波長の硬X線からそれよりずっと波長の大きい軟X線に至るまでの様々な光波よって電子・原子・分子サイズの世界からウイルス・細菌・大細胞サイズの世界までを詳細に観察分析するための最先端光科学システムです。それらのシステムは神戸にあったかつてのスーパーコンピュータ「京」やその後継機「富岳」とも連結されてきており、広範な分野の科学研究に大きな貢献をしてきました。そのため、「巨大な顕微鏡」などとも呼ばれることのあるSPring―8やSACLAですが、それらのシステムと電子顕微鏡との大きな違いは、高輝度の人工光線の特質を活用し何通りもの手法で対象物を明確に分析観察できるばかりでなく、電子顕微鏡での観察には大きすぎる細菌や細胞類のような対象物にまで自在に対応が可能なことなのです。
1997年にSPring―8が稼働開始をした当初、国内の製薬業界はその放射光施設に強い関心を示しましたし、施設側も創薬研究に広く活用されることを期待していました。新薬、なかでも各種ワクチンをはじめとする低分子領域の新薬開発に際しては、まず病気の原因となる細菌やウイルス類のタンパク質の結晶構造を解析し、その構造に的確に対応できる化合物の組み合わせを探索するSBDD技術(Structure Based Drug Design技術)が不可欠だとされていたからです。ただ、先読みの全く不可能な、試行錯誤の過程に基づくそんな技術を実践するには、膨大な時間と資本、さらには多数の有能な人材が必要でした。そして、新薬開発に必然的に伴うそのような特殊事情は、現在に至るまで世界中の製薬業界で激しいM&Aが繰り返され続けてきている要因にもなっているのです。それゆえに、そんな状況下に折よく登場した大型放射光施設SPring―8などには、日本の製薬業界も一時的に大きな期待を寄せはしたものでした。
新薬の生成過程においてとくに重要となるのは、病原菌やウイルスのタンパク質の構造解析が終わったあと、人体に有害なその機能を抑制ないしは無力化するべく作用する抗体や化合物を無数の候補物質中から絞り込み、さらにはそれらの中から最適なものを選定するHTS(High Throughput Screening)というプロセスです。それはまさに、極めて複雑高度な構造をもつ錠の鍵穴にぴったり合う鍵を無数に存在する鍵の中から、気の遠くなるような試行錯誤の積み重ねを通して探し出す行為にも相当しています。しかも毎回のマッチング作業自体が、それぞれに生化学上の複雑な知識技術と手順を要する内容のものですから、事態は容易ではありません。
HTSというこの種の作業は1990年代までは薬学研究者らの手作業によって遂行されており、その作業の性質上、5年から15年という歳月を要するのがごく普通のことでした。2000年代前後からはHTS作業をロボットに任せる新技術が開発され、作業効率そのものは大幅に向上しましたが、この技術を発展的に駆使するには必然的に莫大な投資が必要ともなったので、製薬業界では企業間の世界的な吸収合併が一段と進められるようにもなりました。そんな時流の煽りを受け、国内では大手であっても国際的な視点からすれば中小企業に過ぎない、そして資本の規模でも海外諸社に見劣りする日本の製薬会社は、新薬開発において厳しい状況に晒されるようになりました。そのような折にたまたま登場し、業界に一縷の光明を授けてくれたのが、ほかならぬSPring―8やそれと連携し超高速データ処理に対応可能なスーパーコンピュータ「京」だったのです。
(放射光活用に期待したものの)
軟X線領域の放射光を用いてタンパク質の構造を解析し、その上で化合物とのマッチングシミュレーションを効率よく行う新SBDD技術は当然世界各国でも注目され、米英独仏や中露のほか、スイスやデンマーク、台湾などでも国策としてその技術に基づく生命科学研究や新薬開発が促進されるようになりました。ただ日本のSPring―8の場合には硬X線領域の放射光による諸々の電子、原子、分子類の研究なども含めた広域にわたる分野の研究開発が狙いであったため、その活用は軟X線領域に特化されてはいませんでした。しかし、スイスやデンマークのような製薬産業発展を国策とする国などでは、生命科学や創薬研究の促進にその用途を特化した軟X線専用の放射光施設が建設され、大きな業績を上げるようにもなりました。SPring―8のビームラインの生み出す軟X線に較べ、それら海外の施設の生み出す軟X線の輝度は10倍以上も高く、創薬研究に適しているとも言われてきています。
そんな世界の製薬業界の流れの中で、日本の製薬諸企業も一旦はSPring―8の放射光活用に乗り出しました。ところがそこで大きな問題が新たに生じてきたのです。病因となるタンパク質の放射光による構造解析が進めば、次にそのタンパク質の増殖やその有害機能を抑制する抗体や化合物との適合関係をシミュレートするためのデータベースや、スーパーコンピュータを駆使してマッチング・シュミレーションを超高速で遂行するソフトウエア技術が必要となってきます。だがしかし、そんなデータベースやソフトウエアを構築維持したり、そのために不可欠な技術者を養成したりするには、国内の一企業では到底負担不可能な額の莫大な費用が発生してしまうのでした。
そのため、日本の薬品業界では「蛋白質構造解析コンソーシアム」なる組織が形成され、SPring―8内に創薬専用のための共用軟X線ビームライン「BL32B2」が設置されもしました。しかしながら、2000年代の半ばを過ぎる頃からそのシステムを利用する製薬企業が減少し続けるようになり、2012年3月にはその創薬専用のビームライン運用から全ての製薬企業が完全撤退し、コンソーシアム自体も解散されてしまったのです。各種抗体や化合物のデータベースがなお未整備のままだったのがその理由なのでした。