時流遡航

《時流遡航》電脳社会回想録~その光と翳(19)(2014,01,15)

国内においてもコンピュータ通信網がそれなりに普及し、「パソコン通信」という概念が漸次「インターネット」という新概念に移行し始めたのは、前世紀も終わり間近な頃のことだった。この時代になると一般社会においてもコンピュータによる情報通信の重要性が徐々に理解されるようになってきていた。ただ、マスメディア界においては、なおその種の通信機能に対する評価はいまひとつの状況であった。そして、私の身辺でたまたまインターネットに絡む新展開が起こったのは、そんな状況下にあった97年末のことである。

さらに話は90年代初頭にまで遡るのだが、私には穴吹史士さんという朝日新聞社会部の著名な記者との出合いがあった。そして、その出合いが縁となり、それ以降、何かと一緒に仕事をさせてもらう機会に恵まれた。私のもともとの専門分野は数理科学系だったので、穴吹さんと出合うまでは、朝日新聞社から依頼される仕事というと、往時の「科学朝日」誌での記事執筆のような、科学関連の内容のものにかぎられていた。

その後、大学での研究職を辞してフリーランスの身になった私は、生活をしていく必要上、文筆の仕事の範囲を文科系領域にまで広げるようになり、各種の翻訳なども手掛けるようになった。当時私が翻訳出版した書籍のひとつに「超辞苑」(新曜社)という奇書があったが、たまたまその本を手にし、「訳者あとがき」を読んだ穴吹さんから、週刊朝日でコラムを書いてみないかとの思わぬ誘いを頂戴したのだった。

「世界名画の旅」や「愛の旅人」、「歌の旅人」をはじめとする「旅人」シリーズを次々に企画発案し、自らも率先して名筆を揮い朝日新聞紙面を飾ってきたことで知られる名記者の穴吹さんから直接に電話を貰い、コラム執筆のお誘いを受けたのは、三文文士ならぬ「百円ライター」の身にしてみればこのうえなく光栄なことであった。

それは、穴吹史士さんが週刊朝日の副編集長から編集長に昇格したばかりの頃のことだったが、身のほど知らずの私は、のうのうとその誘いに乗って「怪奇十三面章」という風変わりなコラムを同誌で連載執筆することになった。当時の週刊朝日の副編集長は山本朋史さん、清水建宇さん、柘植一郎さんの3人で、皆その後に朝日の重鎮として活躍するようになった人物であったが、同誌での執筆が縁となってそれらの方々とも親交を持つようになった。それからしばらくすると、それまでの諸業績を評価された穴吹さんは出版局次長に昇進した。そんな穴吹さんの勧めなどもあって、私は、朝日新聞社が創刊したばかりのパソコン月刊誌「Paso(ぱそ)」などにおいても、創刊号を皮切りに2年間余にわたって「コンピュータ解体新書」という連載記事の執筆を続けることになった。

ところが、私が「Paso」誌での連載を終えてしばらくした頃、突然、穴吹さんは電波メディア局という当時はまだあまり聞き慣れない部門へと移動になった。穴吹さんが発行人となり、週刊文春編集長などを経て転身したある人物を新編集長に据えて創刊した「UNO(うの)」という女性誌の事業展開が、複雑な諸事情のためにうまくいかなくなってしまった。穴吹さんが週刊朝日の編集長だった頃にはその向こうを張っていた週刊文春の元編集長を、朝日新聞サイドに呼び込み新編集長に就任させての雑誌創刊であり、しかもその人物が特別な事情で文藝春秋社を追われた直後のことだったので、それはまさに「敵に塩を送る」という故事を地でゆく行為でもあった。穴吹さんの器量の大きさを偲ばせる出来事だったが、結果的に、ほどなく同誌は業績不振のため廃刊のやむなきに至り、その責任を取らせられるかたちで穴吹さんは左遷されたようなわけだった。「僕なんかもう出社してもしなくても会社には関係ないんだ」などと折々ぼやくほどに当時の穴吹さんは意気消沈しきっていたので、その様子を見ているこちらもいささか辛くなるほどであった。

しかしながら、そこから穴吹さんの再起は始まった。97年にAIC(アサヒ・インターネット・キャスター)という風変わりなコラム欄をアサヒ・コムのウエッブ上に立ち上げた穴吹さんは、先がよく見えないながらも、そのウエッブ・コラムの内容充実と拡大発展とに全精力を注ぎ込むようになっていった。翌98年に穴吹さんと箱根方面に旅に出かけた折のこと、2人で風呂に入っていると、「本田さん、私が運営するアサヒ・コムのAICコラムで何か書いてみませんか。正直なところ、通信費程度しかギャラは出せませんが、そのかわり内容は自由でどんなことを書いてもらってもかまいません。文章の長さなどにも特にこれといった制限などありません。お金のかかる有名ライターなどには頼めませんので……」と原稿執筆の話を持ちかけられたのだった。それは、ほぼ無名に等しい「使い捨て百円ライター」なる身のゆえの幸運(?)だったと言ってよかったろう。

2人ずつペアとなって原稿を書いてもらうことにしたいという穴吹さんの意向に従い、私は、「僕が医者を辞めた理由」という著書ですでに広く知られていた作家の永井明さんと組んで原稿を書くことになった。原稿執筆を諒承すると、穴吹さんは、「永井さんは医者を、本田さんは数学の研究者を辞めた同士だから、ちょうどいい組み合わせですよね」など軽口を叩きながら、すぐさま「医者VS.数学者」というコーナーをAICの水曜欄に設けてくれた。我々にすれば「慰者VS.崇楽者」くらいのほうが気楽でよかったのだが、結局、永井さんは「メディカル漂流記」、私は「マセマティック放浪記」というタイトルでそれぞれにコラムを書き始めることになった。

いい加減な我々2人のことだから、永井さんは医療の話などほとんど書かなかったし、私のほうも数学の話などめったに書かなかった。私の相方を務めてもらったその永井明さんは、AIC欄がアサヒ・コムから現在のアスパラクラブに移行する前にすでに他界され、いまは沖縄座間味諸島の海中に眠っておられる。生前座間味の海をこよなく愛した永井さんの遺志に従い、その遺骨は座間味の海に散骨されたからである。

「マセマティック放浪記」で原稿を書き始めた頃は読者のAICへの月間アクセス数はせいぜい2万回程度だった。そのためもあって、しばらくすると穴吹さんからは、原稿は長くても四百字詰め用紙で2枚程度に抑えてほしいとの要望があった。ウエッブ上ではそれ以上長くなると読者からまともに読んではもらえないからというのがその理由だった。しかし、私はその意向に反して毎回四百字詰めで12枚ほどの長い原稿を書き綴っては穴吹さんに送り付けた。「本田さんの原稿をちゃんと読むのは編集者を兼ねる僕一人くらいのものだろう」などと茶化されたりもしたが、めげずに長い文章を書き送る私の執拗さに最後は穴吹さんも根負けしたみたいだった。「本田さんのせいで、永井さんの文章も、その他のライターの文章もだんだん長くなってきた」と愚痴をこぼされたりもしたものだ。

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