時流遡航

《時流遡航》夢想愚考――我がこころの旅路(13)(2017,08,01)

(奥の細道――「山刀伐峠」考)
 奥の細道の本文にも曾良随行日記にも山越えをした旨の記述があるだけで、その名が明記されていない山刀伐峠(なたぎりとうげ)は、大森山と金山とをつなぐ稜線の鞍部にあたり、その高度は海抜470mほどである。封人の家のあった堺田付近の海抜高度が300m~400mほどだから、その高度差はせいぜい200m前後のものだろう。芭蕉らは元禄2年5月17日(新暦7月3日)に堺田から尾花沢までの約30kmの道のりをまる一日かけて歩いている。堺田と山刀伐峠間約12kmの行程のうちもっとも高度の低いところは現在の赤倉温泉付近で、海抜300m強のようである。したがって芭蕉一行は堺田を出立したあと緩やかな坂道伝いに100mほど高度を下げ、そのあと急な坂道伝いにいっきに200mほど高度上げて峠を越え、南側へと伸びる長く緩やかな坂道を最上川沿いの尾花沢集落へと下っていったことになる。山刀伐峠という呼称は、北側が急で南側が緩やかなこの峠の地形が昔の猟師や農民らの冠物(かぶりもの)の「ナタギリ」に似ていることに由来しているという。「尿前の関」の章中で、芭蕉はこの山刀伐峠越えについて次のように述べている。
「宿の主人によれば、ここから出羽の国(現在の山形県)に出る場合、途中に大きな山があって道もはっきりしていないから、道を案内してくれる者を頼み、その者の先導で山越えをしたほうがよいということである。それならばと人を頼んだところ、道案内にはもってこいの頼もしい若者がやってきて、刃先の反った山刀を腰に差し樫の杖を手にした姿で我々を先導してくれた。我々は、今日こそはきっと危ない目に遭うにちがいない、とはらはらしつつ、さらにまた辛く苦しい思いを重ねながらそのあとについて行った。宿の主の言った通り、その高山は森閑としていて鳥の鳴き声ひとつ聞こえず、樹木が鬱蒼と繁っているため樹下の道はひどく暗く、まるで夜道を歩いているような感じであった。『雲端につちふる』という杜甫の詩の一節をも想い出すほどに薄暗くて凄まじい有り様で、笹薮の中を踏み分け踏み分け前進し、沢の流れを渡ったり岩に躓いたりするごとに冷や汗で肌身を濡らしながら、やっとのことで最上の庄に出た。案内の男は、『この道を通る時にはきまって不祥事が起こるのですが、今日は無事にお送り申し上げることができ幸いでした』」と言い残し、喜んで帰って行った。その言葉を聞いたのは無事に道中を終えてからではあったけれども、それでも胸がどきどきしてならなかった」(筆者現代語訳)
 この記述を読むかぎり、彼らが越えた峠路は想像を絶するほどに峻険で人跡稀な難路であったかのように思われる。だが、現在も部分的に残るこの古道を実際に歩き地形的な考察をしてみたかぎりでは、北面がブナの原生林で覆われていた元禄時代であったとしても、ここがそれほどの難路であったとは考えられないのだ。この程度の険しさの峠路は当時ならどこにでもあったに相違ない。堺田の封人の家を出発した芭蕉らは、古代からの交易路、北羽前街道を新庄方面に向かって6kmほど進み、現在の羽前赤倉駅に近い明神のあたりで左に分岐し、山刀伐峠を越えて尾花沢に向かう山道を下ったものと推定される。実のところ、この山道は南部地方(岩手)と最上地方(現在の山形県村山市一帯)を結ぶ中世以来の要路で、出羽三山の参詣路でもあったのだ。
 尾花沢に着いた芭蕉は門下の鈴木清風の屋敷に泊まっている。紅花商人の清風は尾花沢の豪商だったから、南部地方や仙台方面の商人たちとも諸物資の取引があったことだろう。当然、清風配下の用人たちは山刀伐峠を越えて往来していたはずである。そうだとすれば、芭蕉が尾花沢に到着する以前から清風とは連絡が取れており、堺田から尾花沢に至るこの道程の情報もあらかじめ掌握されていたと考えるほうが自然なのではなかろうか。
(言葉の絵師としての松尾芭蕉)
 封人の家と山刀伐峠を実際に訪ね終えたあとで、芭蕉がなぜそんな事実とはずいぶん異なる記述をあえて書き残したのかという疑問に私は再び立ち戻ることになった。もっともこの時までにはさすがに、芭蕉の世界に疎いこの身にもその答えらしいものがそれなりには見え始めていた。もちろん、尾形仂さんやドナルド・キーンさんらの「奥の細道」研究の成果を念頭に置きながら、改めてその背景に想いを馳せらせていたからである。
 キーンさんらの指摘の通りに、芭蕉が奥の細道の全文を完成させるのに5年もの歳月をかけたのは、句の部分ばかりでなく、散文部を含めた作品全体を極めて完成度の高い詩物語として仕上げようという意図があったからに違いない。長い旅路での数々の体験が芭蕉という稀代の天才の心眼を通して一度濾し分けられ、それらが深い感動を伴う究極の心象風景となって「奥の細道」という時空を超えた普遍的作品へと結実したということなのである。奥の細道の随所において事実とは大きく異なる記述がなされたりしているのは、元々芭蕉には事実を細大漏らさずそのまま記述する意図も、その必要性もなかったからに違いない。紀行文というと、事実に即した克明な記述がなされているものだと思われがちだが、それは現代的な紀行文に慣らされた我々の勝手な思い込みだともいえる。芭蕉の時代の「紀行」は現代の「紀行文」とは本質的に異なっていたのだと考えるほうが自然なのだ。
 一流の画家というものは、なにかしらの現実の風景を目の前にしてその画家なりの心象風景をつくりあげ、それをキャンバスに描きとめる。だからこそ、絵画の世界では何でもない風景をもとにして後世に残るような感動的な名作が生み出されることにもなるのである。そのような場合、完成した絵の風景が現実の風景とは異なっているからといって、その作品の評価が低くなるようなことはありえない。それとまったく同様に、芭蕉の奥の細道を陸奥の旅を題材にした一幅の絵巻、それもきわめて完成度の高い絵巻物語だと考えてみるならば、すべては説明のつくことなのだ。それは、実際の旅の出来事を素材にした心象作品、すなわち、ノンフィクションをベースにしたこのうえなく良質なフィクションなのだということになる。芭蕉という稀代の「言葉の絵師」に偉大な絵巻物師の姿を重ね見るならば、万事納得がいくというわけなのだ。
 遠く李白を偲び、歌人西行の旅の世界に傾倒もしていた芭蕉は、その旅路のなかに先人たちが心惹かれた昔ながらの風物や風情を求めようとしたに違いない。だが、元禄という爛熟した時代の波は行く先々の景観を大きく変えてしまっていたことだろう。現代の我々が芭蕉の歩いた名所旧跡を辿るとき、昔の面影などまるでないその変容ぶりに嘆息することは少なくない。同様の思いは元禄時代の芭蕉にもあったことだろう。そうだとすれば、奥の細道を完成させるにあたって、芭蕉が終始心象風景の記述という作業、すなわち良質のフィクションの創作に徹し抜いたことは、当然の成り行きであったと言うべきであろう。

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