時流遡航

《時流遡航》夢想愚考――我がこころの旅路(20)(2017,12,01)

(渡辺淳さんとの交流を回想する――③)
 一生に一度お目にかかれるかどうかの松茸御飯が、粗食に慣れきった身のメンタリティに及ぼす影響力は想像以上に凄まじかった。おかげで食後すっかり調子に乗った私は、夜の更け行くのも忘れ、ここぞとばかりに、渡辺淳山椒庵主のそなえもつ並外れた創造力の秘密の解明に取り掛かった。こちらの遠慮のない追及に観念なさったのか、渡辺さんはユーモアたっぷりの語り口で、自らの人生の歩みと、「画歴」というよりは「蛾歴」とでも言ったほうがよさそうな独特の絵の世界の舞台裏を洗いざらい話してくださった。
 貧しさのゆえに生後まもなく大飯町川上の渡辺家へ養子に出されたこと、小学二年生のとき、学校で怪我をした自分をを負ぶって家まで送ってくださった若い綺麗な女の先生の柔らかな背中や美しいうなじが忘れられず、ほのかな慕いと憧れを込めて女の人の姿を描き始めたのが絵の世界に興味をもつ直接の契機になったこと、その先生はほどなく早世され、お墓は高浜にあることなどが、まず語られた。ただ、七歳にしていきなり美人画の世界にチャレンジしたという超早熟少年の姿を眼前の山椒庵主から想像するのは、けっして容易なことではなかった。
 天の導きとでもいうか、十三歳になった渡辺少年は、幼いなりのレベルでは半ば極めかけた美人画の世界を放棄することを迫られる。戦時中大阪から大飯町に疎開なさっていた女流画家の吉岡美枝先生にたまたま出合い、「僕は美人画をやっています」と、雑誌で見た岩田専太郎や志村立美らの描く美人画の模写を誇らしげに差し出した少年は、模写ではなく自分の目で見たものを自分の心で描くようにと諭されたのである。吉岡先生が少年に与えた最初の課題は、縁側にそっと置いた五、六粒のソラ豆を描くことだったらしい。プロの凄さを肌で悟った少年は、時間の許すかぎり先生のもとに通い、「乾いた砂が水を吸う」のたとえそのままに多くの得難い知識を学び吸収したのだった。わずか三、四ケ月の短い期間だったそうだが、それは、のちの渡辺少年の人生を左右する決定的な出合いとなった。
 渡辺さんはそこまで話し終えると、一息つきながら、さりげなく視線を上方に向けた。その視線を追いかけるようにして上を見やると、そこにひとつ古びたランプが掛けられているではないか。竹人形館で見たあの絵の中のランプだ!……私は思わずそう呟きそうになった。この画伯の絵の命そのものとも言うべきランプと蛾の秘密が、いままさに解き明かされようとしていた。光と蛾を操り、見る者の心を奪うその魔術師の過去には、ランプの光に集まる蛾たちとの不思議な付き合い、すなわち、長い「蛾歴」が隠されていたのである。まさにそれは、「画歴に秘められた蛾歴」とでも言い表すべきものであった。
(ランプに集う蛾に魅せられて) 
 十代半ばの頃、地元の古老から炭焼きの手ほどきをうけ、それからほどなく本格的な炭焼き生活に入った渡辺さんは、単身佐分利谷奥の深山にこもり、日夜、肉体を限界ぎりぎりにまで酷使しながら、単調かつ孤独な時間との果てしない戦いを続けることになった。長期にわたる山ごもりの生活ともなると、夜はささやかなランプの光だけが頼りとなる。そのランプの光に誘われて、炭焼き窯の周辺には闇を縫って様々な蛾が集まってきた。言葉を交わす相手など誰もいない山奥で独り黙々と働く若者にとって、そんな蛾たちは次第に掛替えのない存在になっていったらしい。蛾の一匹いっぴきに心の存在を感じ、その羽ばたきに愛(いと)おしい命の躍動を見て取った渡辺さんは、やがてそんな蛾たちに深い親しみを覚えるようになった。そして、夜な夜な光を求めてやってくる蛾たちに話しかけ、日々惜しみなくこまやかな愛情を注ぎこむうちに、常人には聞こえないそれら蛾たちの声がはっきりと聞こえるようになっていったようなのだ。
 蛾たちとの不思議な交流を通して声なきものの声を聴くすべを身につけた渡辺さんは、炭焼き窯の周辺に棲みつく、コウモリ、蜘蛛、カタツムリ、フクロウ、ヤマドリ、イタチ、タヌキなどといった動物たちとも対話をするようになっていった。ただ、満足な食事などとれる状況ではなかったのに加え、重労働にともなう空腹感がそれに追い打ちをかけたから、ヤマドリやタヌキなどは、対話の最中に、突然、格好の蛋白源と化して見えることもあったらしい。抑圧され不満の募った胃袋が、自らのそなえもつ優先権を主張すべく声なき声をあげたというわけだったのだろう。
 蛾をはじめとする様々な動物たちや、深々と生い茂る草木の一本いっぽんと対話を重ねるいっぽうで、渡辺さんは、炭焼きの仕事の合間を縫っては人知れぬ想いを込めて絵筆を揮った。貧しくて高価な画材など買えなかったから、セメント袋や豆腐屋からもらってきた麻袋、有り合わせのベニヤ板などがキャンバスの代わりになった。絵筆の代用をつとめたのは、川原の葦や菊科の植物の茎だった。葦の茎をハスに切って使うと独特の味のある線を描くことができたし、菊の茎のほうは、一端をほぐして用いると柔らかな毛先の筆に早変わりした。さらに、石灰や粘土、炭焼き窯から出るタール、草花の汁、各種の岩粉などを適当に調合して手製の絵具を作った。これらの葦ペンや菊の茎の筆、手造り顔料類などは、のちに渡辺さんが水上勉執筆の新聞小説の挿絵を描くようになったときにも、大活躍をすることになった。
 もちろん、渡辺さんが好んで描いたのは、蛾や蜘蛛、イタチなどはじめとする昆虫や動物たち、炭窯や炭焼き小屋とそれらを取り巻く草木、さらには、物語を秘めてその夜私の頭上に掛かっていた傘付きの石油ランプなどであった。なかでもとくに身近な蛾とランプと炭窯は、その絵画作品の中核をなす重要なモチーフとなっていった。その頃からずっと、渡辺さんにとって、絵とは日々の生活をしるす日記のようなものであったのだという。若者の胸中に渦巻く抑えがたい想いと、並外れて鋭い感性の捉える若狭の自然の織り成すドラマは、相互に絡み影響し合いながら夥(おびただ)しい数の絵やスケッチとなって結実していくのだが、それらの作品の真価に気づく者は、絵筆の主をも含めてまだ誰もいなかった。
 渡辺さんの話を伺いながら、私はかなり古びたそのランプを何度も何度も眺めやった。そして、実際にこのランプに火が灯ったらどんな感じになるのだろうと想像をめぐらせもしたものだった。その日の出合いを契機として、その後も幾度となく山椒庵にお邪魔することになったのだったが、残念なことに、そのランプに火が灯った有様をついぞ目にすることはなかった。何時か折をみてそのランプに火を灯してくださるようにお願いし、この本家本元のランプの明りのもとで渡辺さんと一緒にくだんのランプの絵を拝見するという贅沢を味わってみたいと願っていたのだが、その夢だけは叶うことなく終わってしまった。

カテゴリー 時流遡航. Bookmark the permalink.