時流遡航

《時流遡航》夢想愚考――我がこころの旅路(3)(2016,12,01)

伊豆半島戸田(へた)~北から来たもうひとつの黒船とは?――①
 伊豆半島の修善寺から山道を登りながら西に向かって走行し、標高982mの達磨山北肩に位置する戸田峠を越えて少し西に下ると、そこに小さな展望台がある。その展望台に立って眼下を見下ろすと、左側から大きく海中に延び出る細長い砂嘴状の地形に抱きかかえられるようにして静まる小さな入江が見える。そして、その静寂な入江に沿って立ち並ぶのがほかならぬ戸田の集落だ。その入江は集落の名にちなみ戸田湾とも呼ばれている。戸田峠直下のこの展望台から眺める夕陽はなかなかに美しい。戸田集落の秘め持つ稀有な歴史を学んだうえでその夕陽を拝したりしたら感慨はまたひとしおだろう。
戸田峠から戸田集落へと下る車道は急峻そのもので、走行するにつれて一気に高度が下がり、やがて戸田湾に面する集落の中心部に到達する。外海の駿河湾から包み隠されるようにして潜み息づく戸田の入江は知る人ぞ知る豊かな漁港で、特産のタカアシガニやこの地ならではの諸々の深海魚の水揚げで知られている。ごく小ぶりな戸田湾のすぐ外側に広がる広大な駿河湾の水深は最深部では2500mにも及ぶ。そのため一帯は深海魚や深海生物の宝庫となっているからだ。港近くには幾つかの深海魚の料理店があって、そこでしか味わえない珍しい深海魚の刺身などに舌鼓を打つこともできる。深海魚の宝庫とはいってもおのずから獲れる量には限りがあるから、大都会などの巨大消費地にそれらが出回ることはほとんどない。新鮮な深海魚料理を食べたいと思うなら、やはりこの地まで足を運ぶしかないだろう。
この際だから、戸田という集落のいま少し詳しい地理的な説明をしておくことにしたい。戸田は、かつて幕府の金山のあった「土肥」と駿河湾に面する西伊豆最北端の地「大瀬崎」とを結ぶ海岸線の中ほどに位置している。海に向かって伸び出る砂嘴に抱き守られるかのようなかたちの入江は、風光明媚な天然の良港となっており、そこから駿河湾を挟んで眺める富士の姿、なかでも夕日に染まる雄大な富士山の光景は息を呑むほどに美しい(前号参照)。その海側を除く三方を険しい山々に取り囲まれた地形の戸田は、古来、陸の秘境と呼ぶに相応しい存在であった。北側の足保から戸田へと越える真城峠は500m、東側の修善寺から越える戸田峠は730m、南の土肥から越える駿馬山は600mの標高があって、車道の整備された現代とは異なり、一昔前までは戸田への陸路入りは容易ではなかったのだ。
ペリーがいわゆる黒船4隻を率いて浦賀に来航したのは1853(嘉永6)年のことだが、その1年後の1854(安政元)年12月初旬、突然この戸田の集落に500人余ものロシア人が護送されてくるという事態が起こった。当時の諸状況を考慮した幕府の特別な計らいによるものなのだったが、以後6ヶ月余にわたってそれらロシア人らと一緒に暮らすことになった村民の驚きは大変なものだったろう。それでなくても長年にわたって鎖国状態の続いてきた江戸時代のことだから、一大事件であったことは想像に難くない。
ペリー艦隊の陰に隠れ一般にはあまり知られていないのだが、当時の徳川幕府に開国と開港を働きかけてきたのは米国ばかりではなかったのだ。私自身も、戸田を訪れその地に秘められた貴重な歴史を学ぶまでその事実をまったく知らないでいたのだが、実はロシアも徳川幕府に対して開港を要請してきていたのである。
500人を超えるロシア人一行が戸田に姿を見せる1ヶ月前の1854(安政元)年11月4日、伊豆の下田一帯は紀伊半島南端沖を震源とする大地震によって起こった大津波に襲われる。記録によると、下田の町家のほぼ全戸が一瞬にして倒壊流失してしまうほどに凄まじい津波だったらしい。米国のペリーらには少しばかり遅れるかたちではあったが、幕府との開港交渉のためロシアから下田へと来航していたプチャーチン提督指揮下の軍艦ディアナ号は、下田湾に停泊中にたまたまこの大津波に遭遇した。そして、その津波に翻弄された結果、舵などを大破しそのまま航行不能に陥った。
(有能な幕閣の指示で戸田村へ)
 60門もの大砲を備えた2000トン級の大型木造帆船ディアナ号とその乗組員500余名を率いたプチャーチン提督は、幕府との開港交渉のため下田を訪れていたところだった。遭難直後には下田湾近くの白浜海岸あたりで破損部を修復したらどうかという話にもなったらしいが、それにはひとつ大きな問題があった。その頃ロシアと英仏とはクリミア戦争の最中にあって激しく敵対していたので、下田周辺でディアナ号の修復作業を進めた場合、英仏側の艦船に見つかるようなことになったら幕府の外交にも不都合が生じる恐れがあった。そんな事態の発生を危惧した幕閣川路聖謨(なりあきら)は、韮山代官江川太郎左衛門やプチャーチン以下のディアナ号関係者と急遽合議し、地理的に見て外国艦船に見つかりにくく、しかも艦船の修理にも好適地だと判断した戸田村への回航を指示したのだった。下田での対外的交渉で全権を委任されていた幕閣川路聖謨と韮山代官江川太郎左衛門という二人の人物は、ともに極めて開明的であり実務能力の高さも抜群そのものの存在であったという。代官の江川は韮山の反射炉の建設などにも貢献した。
 大きく破損したディアナ号を下田から戸田へと回航させるに当たって、川路聖謨や江川太郎左衛門らはその背景となっている一連の事情や、戸田という場所の地理的状況などの詳細をプチャーチンらに説明しあらかじめその諒承をとったりもした。記録に基づくと、日本側とロシア側の間の意思の伝達は、オランダ語を介して行われていたようだ。日本語の意思内容をオランダ語に訳して伝えるとロシア側でオランダ語のわかる人物がそれをロシア語に直して伝達し、逆に、ロシア側の意思はいったんオランダ語に翻訳されたあとさらに日本語に変換されるというプロセスがとられていたらしい。蘭学事始めにみるように、オランダ語を通して西欧の知識を吸収していた当時の日本人にすれば、それは必然の成り行きともいうべき対応策であったのだろう。
 川路らの指示に従い、地元漁民の協力や乗組員らの必死の作業によってディアナ号はなんとか戸田湾の沖まで回航したのだが、折からの悪天候のため海がひどく荒れていたうえに方向舵の破損と絶え間ない浸水が影響して航行が意のままにはならず、古歌で名高い「田子の浦」近くの宮島村沖(現在の富士市新浜沖あたり)にまで流され、遂にそこで動きがとれなくなってしまったのだった。地元漁民を総動員しての懸命な救船作業も空しく、さしものディアナ号も沈没の危機にさらされる事態になったため、ロシア人乗組員と宮島村周辺の地元民とは、激しい風浪をついて決死の共同作業を行ない、辛うじて船と浜辺との間に救助用ロープを張ることに成功した。

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