時流遡航

《時流遡航》夢想愚考――我がこころの旅路(8)(2017,05,15)

 《一度だけだが谷川俊太郎さんとも 》
 大岡信さんに追悼の詩を捧げられた谷川俊太郎さんにも、一度だけだが直にお会いしたことがある。まだ学生だった時代に谷川さんの「二十億光年の孤独」という深遠かつ壮大な詩作品に出合い、その言葉の響きと含蓄の深さに心底感銘した私は、その一方で自らの言語の未熟さをも痛感させられることになった。もちろん、その時点では、先々谷川さんにお会いできる機会に恵まれることになろうとなどは考えてもみなかった。
 84年のこと、SONYは同社で最初のパーソナル・コンピュータ「SMC―777」を発売するに際し、そのPCのメインシステムの一つとして教育用言語LOGOを搭載することに決めた。当時の人工知能用言語LISPと科学演算用言語PASCALに描画ソフトの機能を組み合わせ、初等教育から高等教育の現場で誰でも容易に使えるように開発されたプログラミング言語がLOGOだった。そして、SONY社は傘下の書籍会社から、「LOGOハンドブック・ことばあそびとリスト処理」(CBSソニー出版)という本を刊行することになったのだが、その執筆編集メンバーの一員をたまたま私も務めていた。その際ふとしたことから、執筆書籍において谷川俊太郎さんの著作「ことばあそびうた」(福音館書店)のなの作品を一つだけ引用させてもらおうということになった。電話と書状をもってその旨をお願いすると、谷川さんは即座に我われの申し出を承諾してくださった。
 予想外の展開が起こったのはそれからしばらくしてからのことだった。突然に谷川さんから連絡があり、「コンピュータそのものにも関心があるし、コンピュータというものがどのように言葉の処理を行うかについても大変興味があるので、是非、書籍掲載用のプログラムや応用ソフト開発現場を見学させてほしい」との申し出を受けたのだった。ことの成り行き上もあって、私が直接対応することになってしまったので、この愚かな身は少なからず緊張しながら大詩人のご到着を待つことになった。ところが、そんな私の眼前にひょっこりと現れた谷川さんの姿は、こちらの想像とはまるで裏腹に、なんとも微笑ましいばかりのものだった。
 失礼を承知で正直に書かせてもらえば、相当に着古した感じさえする白目のポロシャツに職人風の仕事着ズボンを纏った谷川さんは、俗にいう頭陀袋(ずだぶくろ)を、それもまた年季の入った代物を一つだけ右肩に担いだ姿でお見えになったのだった。それは、場末の放浪者をも連想させかねない風体で、その名が世に轟く大詩人の姿だとはとても思われなかった。もちろん、虚栄などとは無縁な真の意味での自信と達観あってこその自然体、いや「超自然体」とでも言い表すべきものだったのだろうが、その様相は、まさに「二十億光年の孤独」なる心境を体感し尽くした人物ならではの極致そのものなのだった。
 それまでの緊張がほぐれていささか気が楽になったのはよかったが、その折に谷川さんが私に向かって次々に発せられた質問は実に深くそして鋭かった。コンピュータ・システムに対する関心のほどにも並々ならぬものがお有りのようだった。内心で冷や汗をかきながら、私は個々の問い掛けに必死になって答え続けた。一見穏やかそうに見えて実は鋭い谷川さんの視線や言葉には、上辺だけはそれなりに身構えていても実は空虚で未熟そのものの自分の姿に対する、さりげない諌めの意味が込められているようにも思われてならなかった。別れ際に、「詩心の本質ってどういうものなのでしょうか」とお訊ねすると、「詩なんていうものは阿呆がやることですから、阿呆になるしかありませんね」という打ち返しようのない変化球が戻ってもきたものだ。
外見上は谷川さんより幾分こざっぱりした服装をしていても、中身のまるで虚ろな自分は、先々少しでも心を豊かにするためにとことん阿呆になるしかないと痛感したような次第だった。それは文字通りに一期一会の廻り合いであり、谷川さんはもうその時のことなど憶えてもいらっしゃらないだろうが、私にとって何とも得難い体験となったのである。
(理性的言葉に欠ける政治家ら)
 いまだにたいした言語能力や本質的な教養など持ち合わせていないこの身なので、偉そうなことは言えないが、そんな私から見ても、この国の平均的な言語能力や文化的教養水準は近年著しく劣化してきてしまっている。このままだと、大岡信さんや谷川俊太郎さんらが苦労して紡ぎあげた言葉の世界などもうどうでもよいものになってしまうだろうし、実利には直接結びつかない文化や教養など最早無意味な存在だとして蔑視されるようになるに違いない。時代の流れだから仕方がないと言ってしまえばそれまでだが、一方では本当にそれでよいのだろうかとも思う。身の程知らずと笑われるかもしれないが、この老体に鞭打ってでも、そんな時流に少しくらいは抗ってみたいという気分にもなってくるのだ。
 ここでこのような批判的意見を述べるのは場違いなのかもしれないが、このところの総理大臣夫妻や閣僚、さらにはその取り巻き政治家らの品格や知識教養のなさは目に余るものがある。彼らの多くは自分の言葉を持っておらず、彼らの発する言葉には何の重みも何の真摯さも感じられない。既に述べてきたように、その人の発する言葉と言うものは、少なからずその言葉の主の心の深さや広さを示す。そのような視点からしてみても、昨今の大臣や与党関係者の吐く言葉はお粗末過ぎるのだ。我われ国民に対する驕りや蔑視としか思われないような発言、さらには自分とは立場の異なる人々の意見をごく僅かでさえも許容できないその狭量さは、彼らの言葉の未熟さや教養のなさに起因している。
大岡信さんや谷川俊太郎さん並みの言葉の職人になれなどと言うつもりは毛頭ないが、せめてその百分の一程度でも言葉の素養や理性の煌めきがあったならば、昨今のような不遜で不毛な事態にはならなかったろう。もちろん、そんな政治家を選んだ我われ国民にも十分責任があるわけだし、そもそもそんな状況が生まれたのは国民全体の言語能力や文化的素養が低下したからでもあるだろう。我われ一般国民にも責任がある話なのだ。
 そんなレベルの閣僚やその取り巻き連中から日本の伝統文化や学校教育の重要性を訴えられてみたところで、腹が立つばかりで、何の賛同も覚えたりはしない。これはもう政治思想の左右の問題などではなく、国民全体の真の意味での愛国心に深く関わる問題だろう。
 昨今の国内政治は一強多弱の状態にあるがゆえに内閣支持率は相変わらず高い。だが、現状のような低水準の内閣でも国政運営が成り立つというなら、弱小政党に政権を委ねても国政は可能だということになる。政権を支える官僚組織がそれなりに自立しさえしておれば、少なくとも今の内閣よりはましなものができるだろう。その善し悪しはともかくも、小選挙区制の持つ意味を我われ国民は今一度深く考え直してみる必要がある。

カテゴリー 時流遡航. Bookmark the permalink.