時流遡航

《時流遡航314》 日々諸事遊考(74)――しばし随想の赴くままに(2023,11,15)

(人間というものの宿命的本質について考える―④ )
 人間というものの自立能力には限界があり、また相互依存性や他者依存性は本能的なもので不可避であることを思うと、しかるべき自立した人生の筋道など見えてきはしない。もしそうだとすれば、現実的な自らの生き方を考えるとき、いったいどんな人生路を辿るのが好ましいことになるのだろうか。絶対解の無い問題だけに、なんとも悩ましいかぎりではある。先に述べた社会心理学者で精神分析学の権威であったエーリッヒ・フロムには、「自由からの逃走(Escape from Freedom)」のほかにも、人間の心の深層を論じた「人間の心(The Heart of Man)」という有名な著作がある。彼はその中で人間の深層心理を論じるにあたり、バイオフェラスとネクロフェラスという究極の対照概念を定義し、個々の人間の精神はその両概念の間に位置し、どの程度どちら寄りになるべきかを模索しながら、生来、果てしない彷徨の旅路を歩み続けるものだというようなことを述べている。
 ちなみに、バイオフェラスとは、生命体としての自己存在をとことん肯定することにより、どこまでも自信に満ちて迷いなく、また他者の眼などを一切気にせず、自己中心そのものの様相を呈しながら破天荒なまでに創造的な振舞いを見せる窮極の資質のことを意味している。その一方、バイオフェラスの対照概念とされるネクロフェラスのほうは、自己存在の意義を徹底的に否定することにより、常に陰鬱かつ閉鎖的になり、他者の視線を気にするばかりか相手に極度の憎悪さえをも懐くようになり、窮極の状況に至っては御し難い妄想や絶望感のゆえに自死の道を選ぶか、他者の存在をも否定して無差別虐殺行為に走り、自らの死の巻き添えにするような資質のことだと定義されている。
 フロムによれば、人間というものは通常その内奥に大なり小なり双方の資質を有し、両資質の内有割合を変化させながら、己の人生路を歩んでいくのだとのことである。私的には幾分バイオフェラス寄りのほうに立ち位置をとったほうが適切に思われもするのだが、たとえバイオフェラスではあっても極端にその資質に偏ってしまうと、人生路の破綻という厳しい運命に瀕することになるというのだから事は厄介極まりない。
 自己肯定の度が過ぎても自己否定の度が過ぎても人間社会の中で生きていくことが困難だとされる状況下にあって、幾分なりとも自立した人生路を辿るにはいったいどうしたらよいのであろう。その実践のためにフロムが重要視するのは、ほかならぬ「創造性」と「愛」の素養であるという。文学や芸術、学術研究の世界などにおいて社会から高く評価されるほどのものではなく、ごく個人的で社会的には全く目立つこともないようなささやかなものではあっても、創造的作業というものは必然的に人心を自立させてくれるようなのだ。ごくありふれた個人的趣味の領域に属する類のものであっても、幾らかでもそこに地道な創造力や何かしらの独創性が求められるようなものであるならば、その作業に関わることによって人はそれなりに自立感を覚えるからなのである。その意味では、他者から見たら全く無意味でバカバカしいものに思われるようなことではあっても、それは自立心の維持とそれにとって不可欠な自律の信念の強化へと繋がっていくことになるわけだ。
「愛」のほうもまた、人間愛のみに留まらず、たとえば、動物愛、植物愛、芸術愛、読書愛、鉄道愛、山岳愛、音楽愛、カメラ愛など、その対象分野も種類も多岐多様にわたるのだろうが、それらを愛することによって、たとえ一時的にではあるとしても、人々は自立した時間空間を持つことができるようである。言われてみれば確かに、創造的作業に耽ったり、何者かを愛する行動に専念したりしているときは、ほぼ自主判断のもとで行動することになるから、そこには必然的に自立した精神状況がもたらされることになる。現代脳科学風に言えば、それは、報酬系とも呼ばれる脳機能部が刺激され心地よい気持ちをもたらしてくれるため、それによって自己肯定感や自立感が高まってくるのかもしれない。
(中立というと聞こえはよいが)
 ただ残念なことに、社会動物でもある人間は、創造的世界や、一途な愛の満ちわたる世界のみに身を委ね続けるわけにはいかない。諸々の異なる価値観や主義主張の渦巻く世を極力自立的に生き抜くには、それら多様な価値観や主義主張の飛び交う直中で自己バランスをとる必要が生じてくる。それらのなかの何れかに無条件でとことん依存していく選択もありはしようが、それでは自立という見地からは外れた道となる。そこで敢えて自己バランスをとろうとすると、浮上してくるのがほかならぬ「中立」という概念なのだ。
 誰しもが金科玉条の如く用いることの多いこの概念は、実に耳触りがよくもっともらしくも聞こえるのだが、少し踏み込んで検討してみただけで、その概念に内在する処し難い矛盾や危うさが明らかになってくる。日常的に目にしている政治世界の主張の対立、それらに対する諸メディアの立ち位置、そんな状況を前にした我々庶民の対応ぶりなどを考えてみただけでも、事態は決して容易ではない。それゆえ、自己反省の意味をも込めて今少し「中立」なるもの概念の現実について述べてみたい。
 昨今の日本の政界には大小様々な政党が乱立しており、当然のことだが、それら各党はそれぞれに相異なる政治理念や政策を提唱してやまない。また、どの政党も自らの主張が絶対的に正しいと強硬に抗弁し合って譲らない。民主主義を標榜する国にあっては、党員数にかかわらず諸政党の発言が許される。ただそれらの中には、常々非現実的な極論を唱えたり、逆に斬新で建設的な主張をしたりする党員が数名の弱小政党も存在する。一方には多数決の原理をもとに、そんな弱小政党の主張など一切無視し、強引に自党の政索を実践していく大政党がある、さらにまた、それらの中間にあって、どちらとも異なる主義主張を掲げる諸政党も存在する。そんな政界の状況をテレビ、ラジオ、新聞、雑誌などのメディアが報道しようとする際によく議論の的となるが、「報道の中立性」の問題である。
 どんな政党の主張であっても、同等の時間やスペースを割り当て報道するのが平等中立の立場なのだろうか。それとも各政党の規模に応じて報道時間や報道スペースの調整をすることが中立的な報道なのだろうか。あるいはまた、個々のメディアが自主判断のもと、諸政党の主張を平均化したような内容の報道をしたり、独断的に多数政党よりの、あるいは自社の支持する政党よりの報道をしたりすることが中立的な報道なのだろうか。
いずれの報道姿勢にも一長一短があり、元々正解など存在するはずがない。ましてや我われ庶民個々人の選択判断に絶対的中立などあろうはずもない。迷いながらも己の意志で自主判断し、結果的にそれが誤っていた場合には直ちに自己修正する柔軟性をもって、未知の道を辿り楽しんでみるくらいが、自立して生きるということのせめてもの報いではあるのだろう。

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