時流遡航

《時流遡航302》日々諸事遊考 ――しばし随想の赴くままに(62)(2023,05,15)

(SPring-8についてささやかな講座を)
 過日久々に市民講座の講師を務めさせてもらった。20年3月1日号の本連載記事中において少しだけその経緯を述べさせてもらった「日本一役に立たない教養講座」という些かふざけた名称の講座の一端を担ってのことである。自らもその会員である「リベラルアーツの会」という小さな市民グループが19年秋に立ち上げた自主公開講座なのだが、コロナ禍の時期と重なったこともあって一時は開催が危ぶまれもした。そんな状況下で26回もの開催にまで漕ぎ着けることができたのは幸いだったと言ってよい。毎回平均30人前後の参加者の方々から頂戴する一律1000円の聴講料のみで会議室利用費や諸資料作成費を含む一切の運営費を賄っているので、各々の講師に支払うことのできる謝礼は文字通り「雀の涙」程度になってしまう。それにもかかわらず、これまで当講座にご尽力くださった著名講師の方々には、心から感謝申し上げているような次第である。
 これまでご登壇願ったのは、評論家の米沢慧氏、元テレビ朝日常務取締役の両角晃一氏、中国清華大学教授の紺野大介氏、農工大講師の林丈雄氏、資源研究所長の三嶋洋氏、都立大教授の高木慎介氏、農工大教授の横山岳氏、元国土地理院長で日本地図センター理事長も歴任された野々村邦夫氏らである。薄謝にもかかわらず、各氏は皆快くその講師を引き受けてくださった。ただ今年7月の第28回講座講師を依頼してあった芹沢俊介氏の急逝については残念至極と言わざるを得ない。多岐の分野にわたる諸講師の講話は、「役に立つ」、すなわち、経済的意味での実利実益には直結するような内容のものではなかったけれども、熱心な聴講者の胸中には深く響くものではあった。それゆえ、「役に立たない」と銘打った一連の講座にもそれなりの意義はあったのだとあらためて確信したようなわけである。
 前回の私の講座テーマは「日本の先端光科学研究の世界を考える――SPring―8,SACLAを介して(前篇)」というものだった。同テーマの講座の後篇は5月27日(土)午後に開催を予定している。スプリング・エイト(Super Photon-ring 8GeV)とは「超大型光子環80億電子ボルト」を意味する世界最先端の光科学研究センターの名称で、同施設は岡山県境に接する兵庫県の内陸地・佐用町に設けられている。また、SACLAとは、その研究所内に設置されている超高性能X線自由電子レーザーシステムのことである。 
同センターが開設されてもう28年ほどになるのだが、一般国民にはその存在は今なおあまり知られていない。和歌山カレー事件やテレビドラマ「科捜研の女」などを介してその名を耳にした方もあろうが、刑事事件絡みの毒物類鑑定作業などは、この施設本来の目的とはおよそ無縁なものなのだ。かつて惑星探査機ハヤブサ1号が小惑星イトカワから持ち帰った微粒子探査に伴う重要な分析工程の一環を担ったのもスプリング・エイトだが、それとてもこのセンターの研究分野全体からするとごく部分的なものに過ぎない。もう10年以上も昔のことだが、縁あってこのスプリング・エイトの学術成果集「夢の光を使ってサイエンスの謎に挑む」の統括制作者に任じられたこともあったので、少しでも同施設の重要性を訴えたいと思い立ち、今回の講座であらためてその紹介と解説に臨んだようなわけである。
光速に近い速度で直進する電子群を強力な偏向磁石で急激に曲げようとすると、電子雲とも呼ばれるそのエネルギー塊の一部がX線の一種である超高輝度・超短波の放射光(シンクロトロン光)となって曲線の接線方向に飛び出す。その特殊な光を用いて諸物質を構成する分子・原子類の極微構造やその運動機能を解明し、新発見の事実や得られた諸知見をもとに、生命科学から有機・無機物性科学、核物理学、地球科学、宇宙科学などに至るまでの科学全般にわたる基礎研究に貢献するのがこの施設の主目的なのである。もちろん、それら一連の基礎科学研究の業績に基づく各種応用科学技術の研究も並行して推進されており、新たな医薬や医療機器類、電池、半導体、情報機器関連部品などの開発、さらには考古学をはじめとする人文科学分野への応用までもが実践されるようになってきている。この場でその詳細を紹介できればよいのだが、それに要する執筆作業や誌面スペースは半端ではないので、残念ではあるが、ここでのこれ以上の深入りは控えおくことにしたい。
ただ、本連載の9回~20回(11年3月1日号~8月15日号)において、「先端光科学研究の世界を訪ねて」というテーマのもと、前述した学術成果集の要旨に基づく記事を執筆したことはあるので、もし関心がおありのようならバックナンバーをご笑覧願いたい。かなり古い記事ではあるが、スプリング・エイトの本質的な原理や機能はそこで述べ記したことと今も殆ど変わりがないので、同施設の概要はほぼ把握してもらえると思う。
(その施設の周知を図る方策は)
 ここであらためて考えておきたいのは、スプリング・エイトという世界有数の光科学研究施設の存在が一般にはよく知られていない理由である。ひとつには、同施設が交通の便も悪く知名度も低い中国地方内陸部の町に立地しているからだろう。佐用町という町名を初めて耳にし、それが日本の何処なのか即座にわかる人は皆無に近いと思われる。同施設がその地に建設されたことには必要不可欠な科学的根拠があるのだが、たとえ一連の施設状況に関心を抱く人があったとしても、同地にまで赴くのは腰が重いに違いない。そんな状況だから、一般人はもちろん、学術研究者であってもその施設の状況を熟知している人は意外に少ない。ノーベル賞にノミネートされるような研究が行われているにもかかわらずそうなのだ。
 また、スプリング・エイトが基礎科学研究を主眼とする施設であることも、その知名度が低い原因ではあろう。基礎科学研究とは、新たな学術理論の構築や未知の原理・法則等の発見、未解明の現象の探究、目先の用途に縛られない基礎的かつ根源的科学技術の開発などを行う分野ゆえ、直ちに実生活に役立つ研究のみを目指したりはしない。基礎科学研究が社会的に有益だと評価されるようになるまでには相当な時間を要するし、人間の知的探究心を満たしはするものの実利性の観点からは外れた研究も少なくない。後々その有意性が高く評価され、やがて社会に多大な利益や貢献をもたらし、科学史上に燦然と輝く業績となることもあるのだが、総じて基礎科学研究は一般人には馴染みが薄い。
それに対し応用科学は、既存の基礎科学研究の成果を基に社会的実用性や実益性の高い技術を狙う。その目的や意図が明確な分野だけに、一般的にも研究の意義を理解してもらいやすい。ただ、だからと言って一般受けする成果主義のもと、学術政策が応用研究のみに偏り基礎科学研究が軽視されるようなことになると、やがてそれは国力の低下へと繋がっていく。そんな事態に対処する意味でも、スプリング・エイトのような基礎科学研究施設の重要性を周知してもらうよう、関係者らは真摯にそのための打開策を練るべきだろう。

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