時流遡航

《時流遡航》回想の視座から眺める現在と未来(3)(2015,03,15)

(ジキルとハイドの数値理論至上主義)
 一連の話を先に進める前に、前号で述べた「特定の円弧の両端を結ぶ弦の長さは、元の円弧の長さより短いことを証明せよ」という問題の舞台裏について述べておきたい。直感的には自明そのもののこの証明問題をいざ論理的に証明しようとすると、堂々巡りの世界に陥ってしまうことにお気づきだろうか。例えば特定の弧AB上の任意の点をPとしたとする。そのとき、三角形を形成する弦AB、弦PA、弦PBとの間には、確かに弦ABの長さほうが弦PAと弦PBの長さの和より短いという関係が成り立つ。だが、この論法に頼るとすれば、このあとさらにまた、弦PAは弧PAよりも短く、かつ弦PBは弧PBよりも短いことを証明しなければならない。要するにまったく同じ問題が「無限入れ子構造」の箱みたいに次々と立ち現れてしまうのだ。
 なかには、直径1の半円を考えるとき、その直径ABの長さは2で、一方の半円弧の長さはπ(3・141592)だから題意は証明できたと考える方もおありだろう。一見して説得力がありそうなのだが、実のところ、このπという円周率の値を導くにあたっては(その詳細な論考の解説は省く)、前述の命題が無条件で成り立つということが暗黙の前提となっているのである。したがって、その問題が証明されたことにはならないのだ。
 ではいったいどう考えればよいのだろうか。ずばり言うと、この問題は「直線は曲線より短いことを証明せよ」と求めているに等しいのだ。「2点間を結ぶ最短距離を直線とする」というのがほかならぬ直線の定義なのだが、なんとこの問題はその定義を証明せよと要求していることになる。より端的に述べれば「2点間の最短距離は直線であることを証明せよ」と求められていることになる。むろん、そんなことなど証明できるわけがない。
 実際、定義というもの無しにはこの社会そのものが成立も機能もしないのだが、見方を変えるとこれほど厄介な存在もないと言えるかもしれない。「無限に人間に近いチンパンジーは人間であると言えるか?」という問いかけに、ある者は、限りなく人間に近いのだから「それは人間にほかならない」と答え、またある者は、「チンパンジーはあくまでチンパンジーなのであって、それは人間ではない」と答えるだろう。人間の認識能力の限界と深く関わる定義や明証性の問題は考えれば考えるほど泥沼の中へと陥ってしまう。
 敢えてこんな面倒な話を書き述べたのは、この社会の奥底には文系・理系の枠組みを超越したこの種の厄介な難題が、様々な形をとって二重三重に潜み息づいていることを知ってほしいからなのだ。いま紹介したものはそのごく分かりやすい事例に過ぎないが、この世で巧妙に立ち振る舞おうとする者たちは、容易にはその矛盾が見抜かれにくい手の込んだこの種の論法を多重に駆使して人心を操ろうとする。数値至上主義の現代社会を支える統計学や確率論のような理論体系においては、その危険性は不可避である。
 我田引水も甚だしいが、もしもこの種の問題に深い関心がおありのようなら、拙著「確率の悪魔」(工学図書)をご一読戴きたい。科学哲学、論理学、認識論の立場から、科学の根幹を成す確率論のジキルとハイド的機能とその限界を指摘しながら、日常言語のみを用いて数理科学の世界の根元を分かりやすく論じた著作である。その中では、文系・理系の学域を包括する視点に立ち、一般の方々にも理解してもらえるような配慮のもと、諸科学の根元を成す定義や論理の意義、さらにはそれらの限界について詳しい考察を進めている。
(高偏差値ゆえ医学部へは問題)
 欧米先進諸国では、数学、物理化学、生物学などをはじめとする理数系諸科学の専攻者が、文学や芸術学を含む社会科学の研究に転じたりすることや、その逆に社会科学系の専攻者が理数系科学の世界に転身することも珍しくはない。米国の大学医学部などの場合には、四年間ほど文系・理系に跨る広く深い基礎教養を積みながら人格形成に努めたあと、自分の適性や能力を十分に勘案し、そのうえで同学部へと進むのが普通のようである。我が国も今一度そのような欧米の多様かつ柔軟な学術界のありかたに倣うようにしたほうがよいだろう。近年この国では基礎教養が異常に軽視され過ぎているように思われてならない。
 すでに他界してしまったが、筆者の親しい知人の一人にある著名な東大名誉教授があった。国際的な知見も豊富だったその人物は、生前に東大入試制度の検討委員会の責任者を務めたこともあったのだが、私と二人だけだった時に、意外な一言を吐いたものだ。「現在の入試法では無理なのだが、もしもそのようなことが可能なら東大理科Ⅲ類の合格者の多くを占める有名私立高2校出身の受験生を落としたい。むろん、彼らは入試で高得点を取るし、その中に優秀な学生がいることも確かではあるが、全般的に見て、将来優れた医師や医学の研究者となるのに不可欠な人格や、真の意味での自主性、創造力、探究力、忍耐力、責任感といった資質に欠けている者が多い。まるで盆栽みたいに手取り足取り育てられてきていて、将来大樹となるべき成長力に欠けること著しい」と嘆いたのだった。むろん、それなりに実情を知る私もまた、その言葉には少なからず共感を覚えたものである。
 受験界にあってその頂点に君臨する東大理科Ⅲ類は受験生にとっては憧れの的だろう。しかし、昨今は、医学の世界がどんなものか深く考えもせずに、ただ大学入試模擬試験の得点や偏差値が高いというだけの理由で理Ⅲを目指す者が少なくない。運よく理Ⅲに合格した学生らの中には、それが自分の人間としての能力の高さの証であるかのように錯覚したり、まるでそこが人生のゴールでもあるかのごとく感じたりする者がいることも事実で、実際そこまでで終わりになってしまう者もいるらしい。進学校や進学塾の指導者らが東大理Ⅲをはじめとする有名大学医学部の合格者を出すことに自らの名誉と存在意義を感じるようになっていることも問題だ。統計学というものの裏表を熟知している者からすれば、受験界でもてはやされる偏差値の高さなど大して意味のあることではない。
 むろん、私が知るかぎりでも、東大や京大など有名大学医学部出身の医師や研究者で人格、能力両面において優れた人物も少なくはない。しかし、そんな人物にほぼ共通して言えることは、彼らが広い教養を具えていることである。芸術や文学の世界などに驚くほど通じていたり、哲学や社会学に造詣が深かったりもする。要するに、専門領域の壁を超え時間をかけて広く学ぶことによって培われた本質的かつ総合的な人間力を具備しているのだと言ってよい。技能も高く経験も豊富なある臨床医が一旦休職し、大学の哲学科で学んだ事例を知っているが、その理由は、諸々の患者に十分な対応をするには、人間や社会の本質についての洞察力が自分には不足していると感じたからだという話であった。

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