(境界線を設けるという行為の意義を再考察してみる )
無限に広がる平面があるとして、そこにひとつの円を描いてみるとしましょう。そしてその円の内側に自分を含めた多くの仲間たちが住んでいると考えてみることにしましょう。その場合、その円弧は、自らの属する集落や民族、さらには自国の境界線などを意味することになります。その外側に無限に広がる世界があるとすれば、人間をはじめとする諸々の生命体が自らの存在を意義あるものとし、その生存基盤が確固たるものだと認識するためには、大なり小なりそんな円弧を描き出すことが不可欠なのかもしれません。
もしもそんな円を描くことなしにその無限平面上で生きることを余儀なくされるとするならば、自身の存在がいったい如何なる意味を持つのかさえ分からなくなってしまいます。そして、常に未知の不安や恐怖に駆り立てられながら、果てしなく広がる世界の中を命尽きるまで彷徨い続けることになってしまいます。もっとも、なかには、永遠に定めなき放浪の旅路こそが常々望むところであり、還るところなき魂遍歴の道程こそを本望とするがゆえに、境界線など不要だとする孤高な存在もあったりはすることでしょう。しかし、そんな生き方のできる者は極めて稀であろうと思われます。
無限平面上に描かれる円弧は、その外側に広がる無窮無辺の世界から内側の世界を堅守すると同時に、逆に、外側の世界の諸存在を排斥する機能を持つことになります。しかも、その円弧は外側から強い圧力が加わってこないかぎり、より大きく広がっていこうとするものです。それは、その円弧の内側に息づく生命体の本能のなせる宿命的な業だといえるかもしれません。そんな円弧の特性が人間生命の集合体としての家族や集落、さらには民族の、そしてまた国家なる存在の本質を象徴していることは言うまでもありません。また、そんな絶対不可欠な円弧の存在があるからこそ、自らも、家族も、集落も、民族も、国家も維持存続が可能なのだという逆転した概念が徐々に定着していくことにもなるのでしょう。そう考えてみると、円弧という名の境界には想像を超える機能と力があるようです。
しかし、ここで少しばかり発想を変え、異なる視点からその円弧の問題を考察しなおしてみることにしましょう。今度は、無限に広がる平面上ではなく球面や回転楕円体の表面にみるような有限曲面の場合にはどうなるかを検討してみようというわけです。地球の表面などは文字通りの球面ですから、ある意味ではこちらの事例のほうがより現実的なのかもしれません。我われ人間が地表上に円弧を描く時など、その外側は無限平面であるような錯覚を抱きがちなものなのですが、よくよく考えてみると実は球面上に円弧を描いているわけです。同じく地表上に直線を引いた場合などは、厳密にいうとそれは曲線、すなわち巨大な円弧の一部になっているのです。ただ、この哲学の脇道遊行の旅は文字通り遊び半分に思考の妙やその表裏の現実様態を楽しみながら道行くことにありますから、そのあたりのことはあまり難しく考えず、気軽に受け止めるようにしてください。
(球面上に描く円弧の示すもの)
それでは、ここであらためて球面上に円弧を描いた場合を考えてみましょう。この一件に関しては、フランスのガブリエル・マルセルという哲学者が既に問題提起をしています。マルセルは「球面上に縁線を描くとき、どちらが内側でどちらが外側なのだろうか?」と人々に問い掛けているのです。ここで言う「縁線を描く」とは、閉じた連続曲線で囲まれた不定形図形や多角形の境界線を描くことであり、必ずしも円弧を描くことだとはかぎられません。ただ、ここでは、複雑な事象を単純化しその本質的構造だけを抽出して思考を進めるトポロジー(位相幾何学)の精神に倣うことにし、球面上に真円を描く場合を想定して問題の核心に迫ってみることにしましょう。
まず球面上に境界を示す小さな円を描き、無限平面上に描いた円弧においてと同様に、その内部が自身の勢力圏になっていると仮定してみてください。その場合、円弧の内側にいる者たちにとっては、その円が外部の世界から自分たちの存在を区別してくれている境界線なのだという意識が生まれることでしょう。その一方、円弧の外部に存在する者らの目には、狭くて閉鎖的な境界を設けて内に篭ろうとする偏狭な連中というふうに映るかもしれません。ところが時の経過とともにその小円が徐々に広がり、やがて球面を2分する大円へと至り、さらにその勢力圏を拡大しようとすると、想定外の異変が生じます。それまで大きくなり続けていた円弧が縮小しはじめ、やがては以前に自分たちの世界を包んでいたのと同じ周長をもつ円にまで縮んでしまいます。
ただ、面白いことには、その時点においては状況が完全に逆転してしまい、かつて内側だった世界が外側へと、また外側だった世界が内側へと変容を遂げていることになるわけです。自己存在の維持保全のため守りについていたサイドが、気がついた時には他者に外的な包囲圧力をかけるサイドに転じ、それまで包囲圧力をかけていたサイドが何時の間にか守勢に立たされているという次第です。大観するなら、内も外もない有様、すなわち、有限な球面上においては境界で囲まれたある領域というものは内側であると同時に外側でもあるということになっているのです。まるで昔からある禅問答を連想させるような話なのですが、大局的に眺めてみると、それはそれでひとつの真理にほかなりません。
なおまた、この事例は球面上に設定された領域についての問題だからまだ分かりやすいのですが、それが相異なる精神論や主義主張の絡む思想の対立だったりすると、本質的には同様の構造を持ち具えていたとしても容易にはその実態が見えてきません。例えば、絶対的平和や絶対的幸福などを追い求める思想が、表向きにはそれらが徹底して忌み嫌うはずの戦いの要素を内奥に秘め持っていること、そしてその要素を完全に放棄してしまえば当初の理念の実現さえもが不可能なことなど、通常においてはまずもって理解も想定もなされてはおりません。平和や幸福の実現を推し進めれば推し進めるほどに戦いが生じ、戦いをとことん進めるほどにその結果として平和や幸福が生じることもあるという矛盾した社会構造のもとで我われは生きているにも拘らず、その実態を自覚することは至難なのです。「絶対的」という一見したかぎりでは信頼のおけそうな言葉の奥に、実は魔物が棲み潜んでいるのだということを常々認識するようにしておく必要があるのかもしれません。
地球という球面上においては、いつの時代にも陰湿な領土争いや、双方がそれぞれに絶対的正当性を主張する歴史的論争が絶えません。それらの問題に解決不可能な不毛な要素が多々含まれていることは勿論ですが、少しでもそんな状況を緩和するためには、トポロジカルな視点に立ってそれら一連の事象の本質を考えてみることも重要ではあるでしょう。