時流遡航

危機的状況にある我が国の高等教育(7)(2011,2,1)

厳しいことを書くようだが、責任の一端は大学人の側にもある。昨今の日本の大学教員、なかでも若手大学教員にあっては、限られた領域の専門研究に関してはそれなりに高い能力を持つものの、広い意味での哲学的見識に立脚する深い教養や、歴史と文化の観点に裏付けられた体系的思索などにはいまひとつ欠ける者も少なくない。専門領域の分化や深化が進むなかではある程度やむをえなという見方もあろうが、それも限度問題だと言える。理系文系を問わず国内外の著名な研究者を一瞥すればわかることだが、例外なく彼らは高い教養をそなえている。尊敬に値する人格と教養に裏付けられた教育や指導であってこそ専門分野でも若い人材の啓発と育成が可能となることを思うと、それは当然のことだろう。人間的に魅力がなければどんなに秀でた研究でも周囲に理解されず、埋没してしまう虞れがある。折々、野依良治氏などが、並みいる大学人に向かって「あなた方は尊敬されていますか」と問いかけたりするのも、背景にそのような事情があるからにほかならない。

大学教員の全体的な質の低下は実際深刻なようである。比較政治学やアメリカ外交史の専門家として長らく東京大学大学院法学政治学研究科教授を務め、日本比較政治学会会長、アメリカ学会会長、日米教育委員会委員を歴任した東大名誉教授に大学教員の現状について訊ねたことがある。その教授によれば、ここ20年来の博士課程採用枠の大幅拡大が原因で院生全般の能力が低下し、その影響で教員の平均的な能力も落ちてきているとのことであった。そのような状況になるだろうことを見越した東大法学部博士課程では、当初から公的に定められた採用枠の半数程度に院生数を抑えてきたという。だが、それでも若手や中堅研究者の質的な低下は避けられなかったそうだ。国際的な展望に立ち、厳しい論争に耐えながら研究を遂行する能力などにはとくに翳りが見られるという。

理工系などにおいては国際的な研究協力が不可欠なものになってきている。しかし、昨今の日本の若手研究者は共同研究につきもののディベートに弱く、傷つくことを恐れて自分の殻に篭りがちなので、その分仕事のスケールは小さなものになってしまいかねない。一方では短期間での実利的成果を求める社会的風潮がますます強まってきているので、事態は一層深刻だと言うほかない。多岐にわたる研究分野の知識や技術の結集と研究者相互の切磋琢磨を前提としたSPring-8のような世界最先端の国内研究機関でさえ、今なお十分には共同研究が進んでいないのも、そのような背景あってのことなのだろう。

社会人大学教員は花盛り

近年の大学増設に伴い社会人から転身した大学教員が急増していることも問題だ。少子化の時代にもかかわらず過去7年ほどの間に私立大学が100校ほども増え、現在、全国で765校もの大学が乱立している。既存の私大における学部学科や大学院の新設も目に余るばかりで、いまや日本は大学と大学院の花盛り、名花だけならまだしも、奇妙な色と香りの怪花までが我が世の春を謳歌している有り様なのだ。その結果、公務員、企業経営者、テレビや新聞雑誌関係のマスコミ人、タレント文化人らが、各種大学や大学院の教員として名を馳せるようになった。大学教員になるには、基礎学問をじっくり修得するよりもマスメディアで顔を売ったほうが早道な時代なのである。むろん真に見識と能力のある社会人の大学教員登用を否定する気は毛頭ない。だが、博士号取得が前提なうえ厳しい資格試験や資格審査がある欧米とはあまりに状況が違いすぎる。学術論文を書いたことのない多くの社会人教員の場合その講義は単なる経験談になりがちで、論文指導等もままならない。

この事態の発端は2004年4月の大学設置基準改定に遡る。それまで、大学等の新増設には設置条件を満たしていることを第三者機関に事前認証してもらう必要があった。だが、この法令改定によって大学等の新設先行が認められ、後日その教育や研究状況を自己評価し、その結果を公表すればよくなった。評価の公正さを保証するため第三者による事後認証制度の導入も規定されているが、その検証法や認証機関の組織化には明確な基準など定められていない。学術研究や教育内容の実効的な事後評価などもともと困難な話であるにもかかわらず、大学新増設のプロセスは「事前規制」から「事後評価による認証」へと大転換することになった。「科学技術の進歩や多様な社会の変化、さらには産学共同促進を睨んだ迅速な教育機関の新設には、事後評価による認証が望ましい」というのが基準改定の表向きの理由だったが、続々と誕生した新設大学は各省官僚の格好の天下り先になるというおぞましい事態も生じている。そして、その背景にあるのが私学振興助成金の存在だ。

新設大学が天下りの場に?

国内の私大に交付される多額の私学振興助成金の交付額は教職員数を基礎に算定される。助成金は全教職員の給与総額のおよそ5割を助成する一般補助費と、各大学の教育の充実度に応じて傾斜配分される特別補助費とに分かれている。文部科学省高等教育局私学部議事録によると、助成金の傾斜配分は、「教員数に対して学生数の少ない大学等はそれだけ質の高い教育を行っていると見なす」との暫定評価基準にそって裁定されているという。教員数が多く学生数が少ない大学ほど教員一人当たりの助成金交付額は多くなるというわけだ。そのため、設置基準に適合する範囲で極力学生数が少なく施設費のかからない大学を新設し、教員数を最大限に増やして多額の助成金獲得を狙えば、教育内容や学生の質とは無関係にその大学を運営できる。定員割れするようなら、アジア諸国の富裕層の子弟らを迎え入れ数合わせすればよい。官僚らがその大学を天下り先にすることができれば、教育内容のレベルがどうであれ、理事や教授などの肩書きが貰えるから社会的にも見栄えがよい。その気になれば何年か経たあとで元の省庁の郭外団体への再天下りも可能となる。

大学設置基準法には教員資格を規定した条項があるが、それには、「芸術、体育等については特殊な技能に秀でていると認められる者」、「専攻分野について、特に優れた知識及び経験を有すると認められる者」という二つの特別な条項が付加されている。本来それらは、学歴はなくとも真にその道の実力をもつ稀有な人材を大学教員として登用するための補足条項だったのだ。ところが、社会人に大学教員への道を開くため、近年、この条項は拡大解釈されるようになった。官僚らが大学教員に姿を変えて天下りすることが多くなり、またその実態を隠しメディアの批判を封じるため、知名度の高いマスコミ人や芸能人を「人寄せパンダ兼用心棒」として教員に採用できるようになったのも、この条項の拡大解釈の故なのだ。「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則の表現を借用すると、「悪教職員は良教職員を駆逐する。悪大学は良大学を駆逐する」ということにもなりかねない。

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