時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――実景探訪(23)(2019,09,01)

(歴史的想像力の働かせ方について考える )
 想像力を喚起しながら歴史というものを展望するとき、ひとつだけ注意しなければならないことがあるようです。我われは、歴史的事象を考察するに際して、無意識のうちに現在を基点にして過去を振り返り、現在の世界に置かれた光源から放たれる「思考と想像力の光」によって過去の世界を照らし出そうとするものです。
ついついそれが当然のように思い込み、そんな手法について深く考えることなどないのですが、実を言うとそこには大きな問題点が潜んでいるのです。誰もが当然と思ってしまいがちなその視点に立って過去の諸事象を眺めようとすると、それらの事象の背景や変遷推移の過程には十分に想像力が及ばず、そこで思考が停止してしまうことが多いのです。 
古代生物の化石類を無感動のまま過去の単なる遺物として眺めてしまうと、それらを介して遠い過去の出来事が活き活きと甦ってくることもなくなってしまうものなのですが、人間の歴史を顧みる場合にも、それと同様の事態に陥ってしまうことが少なくありません。たとえ特別な意図はなかったとしても、現代の世界の基準に沿った物差をそのまま過去の世界に当て嵌めて歴史的思考を進めることだけは慎まなければならないでしょう。
 それではどうするのが最善なのでしょうか。その対処法を若き日の私に教示してくれたのは、ほかならぬ民俗学者の折口信夫、より正確に言えば、その著作の一つにさりげなく述べ記されていた意味深い一文だったのです。折口は、過去の歴史というものを展望する場合には、想像力の光源を可能な限り遠い過去に設けたうえで、その地点から現代の方向へとむかって走り広がる光によって諸事象の推移を照らし見るようにするべきだという趣旨のことを述べています。
そのような視座に立って前述した古代生物の化石類などを眺めると、その化石が想像の世界の中で徐々に動きだし、それらの生物が生きていた自然環境までが浮かび上がってくるとともに、時間の流れに沿った生態の変化の過程が見えてきたりもするようになるものなのです。そして、それと同様の視点で人間の歴史というものを展望し考察してみると、それまでいまひとつ活性力に欠けて見えていた諸々の過去の出来事それぞれが、ある種の新たな息吹とも言うべき具体性を伴って我々の心に迫ってきもするのです。さらにまた、折口信夫の言うそのような視点のとりかたは、もちろん柳田國男のような見地から民俗史や歴史を考究する場合においても有意義であることでしょう。
ただ、ここで一言だけ断っておきますと、過去から現代方向へと流れ広がる想像力の光の中に現実味を帯びて浮かび上がる歴史的光景のすべてが事実、あるいは真実であるとはかぎりません。そこには人それぞれの想像力の光の当て方の相違や、その光の中に浮かび上がった事象の読み取り方、感じ方の違いが影響を及ぼすことになりますから、絶対的真理などはじめから求めるべくもないのです。裏を返せば、それゆえにこそ、歴史学や民俗学の世界には興味が尽きないということになるのでしょうし、たとえまたそれが物語性を多々秘めたものであったにしても、他者とは異なる自己存在の意義確証の基盤となることはできるのでしょう。
 フランスの哲学者ジャック・デリダなどは、その点を的確に分析してもいます。噛み砕いてその趣旨を記しておきますと、彼は、「どのような歴史的事実であろうとも、語り継がれたものとして、換言すればひとつのテキストとしてしか存在することができない。歴史的事実というものは常に解釈され編集の手を加えられたうえで伝承されるものである。そうであるとするなら、我われがあるテキストに基づく歴史絡みの報道などに接するときには、なぜこの特定の出来事だけが報道され、それに劣らず重要なはずの他の出来事が無視されてしまったのかを注意しておかなければならない。無視されてしまったほうの出来事については別のテキストを通して知るしかないということを常々十分心しておくべきだろう」と述べているのです。諸々の歴史的文献、すなわち、歴史のテキスト類なるものはその程度のものに過ぎないという痛烈な皮肉がそこには込められているわけです。
(歴史的文献と伝承との本質は)
 一般的に見て、現代の我われには、口承を主体とする「伝承」なるものよりも、「文献」、すなわち文字で書き記された資料類の方を重要視し、そちらに絶対的信頼をおく傾向があります。文字文化が誕生して以来、一度記述されるとそのままの状態で残り続け、またある種の存在感さえをも秘め湛える文字表記の文献記録なるものは、我われ人類の多大な信用を勝ち得るようになりました。それは、人間というものが五感のなかでも視覚から得られる情報にとりわけ大きく依存しているせいなのかもしれません。
それに対して、文字文化が定着する以前に過去の事象を後世に伝承するための主流であった口承は聴覚と記憶力と音声言語に依存するものであるため時流に伴う変化を受けやすく、多分に虚々実々の物語性を含むものだと見做されるようになりました。そのため、文献記録の信頼度に較べて伝承の類に対する信頼度は低いものだと考えられるようになったのでしょう。
 しかし、当然至極なものとされがちなそんな見方は本当に適切なものなのでしょうか。我われはここで今一度その背景を冷静に見つめ直してみる必要があるのかもしれません。確かに、伝承の類には、時流の変遷のなかにあって多くの人々の口に膾炙(かいしゃ)するように、事実とは異なる創作的要素や様々な脚色が加えられていく可能性は少なくないでしょう。「講釈師、見てきたような嘘を言い」という諺などはそのことを何よりもよく象徴しています。 
ただその一方で、それら伝承には多くの真実が含まれていることもまた事実です。メディアが発達した現代にあってさえも、重大な出来事などについては表向きの報道などよりも口伝(くちづて)の噂のほうにこそ真相が秘められているようなことも少なくありません。そもそも、文献というものは、日本の古事記がその適例であるように、それまで伝承として口伝されてきたものが文字に変換されて残されるようになったのがその始まりです。そしてその本質なるものは現代にあっても少しも変わってはおりません。
たとえ近現代に執筆された厳格な歴史的文献類であろうとも、その筆者は伝聞された諸情報や自らの五感で捉えた各種の事象像、さらには過去の記憶やその時点での様々な想像力の産物などを文字化しているに過ぎないからです。そう考えてみますと、文献類というものは重要ではありますが、文字としてそこに残された諸情報すべてをそのまま正しいものとして鵜呑みするわけにもいかなくなってくるでしょう。行間を読み取ったり、その文献の背後に隠されている事柄を察知したり、筆者や編纂者によって意図的に挿入あるいは排除された諸事実を探り求めたりする能力がどうしても不可欠になってこざるを得ないのです。

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