時流遡航

《時流遡航》夢想愚考――我がこころの旅路(14)(2017,08,15)

(「信念の人」の逝去を悼みつつ)
今から30年前の87年9月23日、沖縄本島では金環食が観測された。私はその金環食取材のため前日の22日に沖縄入りし、当夜はホテル・ヴィラ・オクマのコッテージに宿泊した。そして、翌日には天空を彩る見事な金環食の一部始終を心ゆくまで眺めることができた。それは実に感動的な自然のドラマだったのだが、これからここで述べるのはその話ではない。
 那覇空港からヴィラ・オクマへと向かう途中、ちょっとした椿事(ちんじ)に遭遇したことがきっかけで戦時下の沖縄について深く知りたいと思うようになり、道すがら目にとめた本屋に立ち寄って一冊の沖縄戦史特集本を買い求めた。夕食後、ホテルの部屋に戻って翌日の金環食取材の準備を終えた私は、半ばベッドに横たわりながら、眠りに就くまでのつもりで軽くその本に目を通し始めた。巻頭部には手榴弾による集団自決直後の凄惨な現場写真や、退避壕の中から現れた一人の少女が、木の枝に有り合わせの白い三角布をつけ、怯えながら米軍のほうへと近づいてくる写真が収められていた。後者のそれは、「白旗を掲げる少女」として米軍の沖縄戦記録フィルムにも登場する有名なシーンの写真だった。 
 この本でその写真を目にしてから何年かのちに、比嘉富子さんという那覇在住の主婦が「あの白旗の少女は私です」と名乗り出て、新聞紙上でも大きく報道された。比嘉さんは当時6歳で、首里が戦火に巻き込まれたため、兄、姉、弟とともに南へ逃げるうちに兄は銃弾を浴びて死亡、姉、弟ともはぐれて一人になってしまったのだった。ちょこちょこ動き回るため日本兵からも危険視され、何度も退避壕から追い出されたという。
そうやって逃げ回る途中で偶然飛び込んだ壕の中に、手足を喪失した老人と目の不自由な老女の夫婦がいた。「もう戦争は終わったから出てきなさい」と投降を勧告する米軍の呼びかけが、ある日突然聞こえてきた。するとその老夫婦は、外に出たがらない比嘉さんを説得し、老人の下着を切り裂いて作った白い三角旗を持たせて壕から送り出したのだそうだ。その後の老夫婦の消息は比嘉さんにも一切不明だというが、その運命は想像に難くない。
 迫真力と衝撃力とに満ちた巻頭写真を目にしたあと、「米軍、慶良間を攻略」というタイトルの初章を少しだけ読みはじめた私は、あっという間にその文中に引き込まれていった。そして遂にはページを閉じることができなくなってしまった。沖縄戦についての正確かつ詳細な記述、日米どちらの側にも偏らない客観的叙述、極力感情を押さえたジャーナリズムの手本のような明快で的確な文章、驚異的なまでの調査力と情報収集能力、冷静な情報分析力、読む者の心を弾きつけてやまない見事な構成力、さらには沖縄戦がなんであったかを如実に物語る三百枚近い戦争報道写真――このうえなく愚かで悲惨な戦史を描き著した本であるにもかかわらず、それは深く心に響く一冊にほかならなかった。
 私はひたすら眼を開かる思いでその本の半ばまでを一気に読み通した。そして、残り半分を翌晩まで敢えて読まずにとっておくことにした。一晩で読み終えるのはもったいないような気がしてならなかったからである。むろん、金環食当日の夜には、深い感銘を覚えながらその本を完読した。冷静な筆致で書かれたこの戦史の本文中には、著者の影らしいものはまったく感じられなかったが、その人物がただ者ではないことだけは明らかだった。恐るべき筆力に感嘆した私は、昭和52年の初版刊行時に琉球大学名誉教授仲宗根政善氏が執筆した巻頭献辞文や著者自身の前書き、巻末の著者略歴などをあらためて細かく読み直し、他の資料などをも参照してその人となりのおよその輪郭をつかもうと努めてみた。
(使命感に貫かれた戦史の執筆)
 沖縄守備軍司令官牛島満中将が自決した昭和20年6月23日の前日、日本軍司令部のあった摩文仁(まぶに)の丘一帯では日米両軍の最後の死闘が繰り広げられていた。沖縄師範鉄血勤皇隊に所属する当時19歳のある若者も、岩さえも燃え砕ける熾烈な砲撃戦の直中で生死を賭した戦闘を続けていた。戦いに利なく多くの学友が戦死するなか、辛うじて凄惨の地を脱したその若者は、3ヶ月にもわたり死の淵を彷徨し続けた末に奇跡的な生還を遂げる。終戦後本土に渡り早稲田大学に学んだ若者は、1954年に渡米しシラキュース大学大学院を卒業、帰国後は東大新聞研究所で研究員として専門研究に従事する。その後、彼はさらにハワイ大学イースト・ウエスト・センター教授を経て、琉球大学法文学部社会学科教授に就任、私が沖縄を訪ねた30年前のその時点ではまだ同大学で教鞭を執っていた。
 自らの命は多くの人々の血で購(あがな)われたものと悟ったその人物は、米国留学から帰国したあとも沖縄戦の資料を求めて機会あるごとに渡米、ワシントンの米国国防総省で膨大な沖縄戦関係の写真資料を探し出し、その中から千数百点の写真を抜粋して日本に持ち帰った。さらに、米国立公文書館、米陸海軍、米海兵隊などが保管する沖縄関係資料や防衛庁戦史室保管資料、各種戦記類など内外の資料を可能なかぎり収集し、沖縄戦の全貌を明らかにしようと試みた。その心中に悲壮なまでの使命感があったことは推測に難くない。 
 入手した資料を体系的に整理した彼は、地元紙の琉球新報に「これが沖縄戦だ」というタイトルの連載記事を書き始める。そして、その記事にさらに加筆し、三百点近い未公開の写真と組み合わせて刊行されたのが、たまたま私が手にした一冊の本というわけだったのだ。この書籍に収録されている写真のすべては米軍側によって撮影されたものであり、しかもそれらはアメリカに現存する関係資料写真のごく一部に過ぎない。日本側の記録写真がほとんど存在しなかったのは沖縄守備軍がほぼ壊滅したことにもよるが、より大きな理由は、それほどまでに彼我の間に物量的な力の差があったからに違いない。
 同書の刊行後も、その著者は毎年のようにアメリカと沖縄とを往復して沖縄関係の写真や機密文書を収集、著述内容の改訂を進めてきた。むろん、それは、青春期、自ら戦火の直中にあって生き地獄を体験し、戦後の留学を経て日本人としては屈指のアメリカ通となり、語学堪能で米国人の知己も多いこの筆者にしてはじめて可能なことでもあった。
 大田昌秀――この人こそがその本の執筆者にほかならない。この人物がそれから何年かのちに沖縄県知事になろうなどとは、その時の私は想像もしていなかった。現在の出版情況は判らないが、おそらく今でも沖縄でならその著書を入手できることだろう。沖縄を訪ねる機会のある人や沖縄戦史に関心のある人にはぜひ一読をお勧めしたい。現在の沖縄の抱える問題の根源は、本書を一冊読むだけで明らかになると言ってもよい。最後に、いま一度あらためて紹介しておくと、「これが沖縄戦だ」(大田昌秀著、琉球新報社刊、那覇出版社発売)がその貴重な戦史記録の書名である。去る7月26日に県民葬が催されたその太田さんの御霊に改めて心からの敬意を表したい。

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