(歴史や史観というものの背景を考察してみると)
歴史や伝記というものが重要なのは言うまでもないことなのですが、その本質的な意義や伝承内容の真偽の問題に踏み込むとなると、話は決して容易ではありません。もともと絶対解など存在しないことを承知したうえで、あれこれ疑問を懐きながら深い思考の霧の中をさ迷い歩くのが哲学の宿命だとすれば、その視座から眺める歴史の世界というものが一筋縄ではいかないものに見えるのはやむを得ないことなのかもしれません。ましてや、哲学の脇道遊行などという些か気軽で側面的な観点からその世界を展望するとなると、その視界の中に繰り広げられる諸々の人間ドラマの軌跡というものはあまりにも複雑多様に交錯していて、どれを本筋と考えるべきなのか、さらには、そもそも本筋なるものが存在しているのかとさえ思われてくるのです。
ただ、たとえそうではあったとしても、まったくその世界に目を向けないよりはましでしょうから、敢えて少しだけその場へと遊行の足を延ばしてみることにします。個々の子細な事実関係の考察はその道の専門家の仕事であり、門外漢に過ぎないこの身などがそこに立ち入る余地など皆無なことは十分弁えていますから、遠巻きにしながらそこで起こっていることに対し、傍観者ならではの愚直な思いをぶつけてみることにしてみましょう。
有名なフランスの哲学者ブレーズ・パスカルがその著作「パンセ(瞑想録)」に書き残した有名な言葉の中に「クレオパトラの鼻が低くかったら世界の歴史は変わっていた」というものがあります。まだ若かった学生時代などには、その言葉を、女王クレオパトラと関係したシーザーやアントニウスなど名高い古代ローマの将軍らへの軽い当て付けか風刺のひとつであるかのように受け止め、ひたすら面白おかしく感じるだけで、その深遠な思索の背景にまで想像を廻らすことはありませんでした。受け売りに過ぎない狭い知識や浅い思考力しか持ち合わせなかった当時の愚かな身にすれば、歴史というものを必然的な因果論の連鎖からなる客観的な存在だと思い込むだけで、それ以上その世界に興味を抱くことはなかったのです。ですから、パスカルのそんな示唆に富んだ言葉も今ほどに感銘深く捉えることはありませんでした。それは、歴史教科では羅列された過去の出来事を丸暗記して臨むのを最善とする、当時の受験教育の風潮による弊害のひとつだったのかもしれません。
2項定理の展開項の係数に関わる「パスカルの三角形」や、流体の圧力に関する「パスカルの原理」などで知られる哲学者パスカルは、今風に言うなら数学者でも物理学者でもあったわけですが、のちのバートランド・ラッセルがそうであったように、若い時代には数学的な確実性を絶対視し懐疑論者を厳しく批判する立場をとっていたようです。そうだとすると、当初は歴史の推移や変遷を、因果律に基づく必然的な、そして「超越的存在によってあらかじめ定められた目的に向かってこの世のすべては展開する」と見なす決定論的な存在だと考えていたのかもしれません。しかし、同じくパンセの中にあるいまひとつの有名な言葉「人間は考える葦である」の中には、「広大無辺な大宇宙に比べれば人間などというものは河原の葦と同様に弱く儚い存在に過ぎない。しかしながら、そんな小さくて脆弱な己の姿を自覚している人間は、『考える葦』として、壮大ではあっても自らの姿を認知することはできない宇宙よりもある意味では偉大な存在である」というような意味が込められていたとも言われます。そして、それはまた、のちに一世を風靡することになる実存主義の先駆けだったとも考えられているようです。ちなみに、実存主義とはその時々に生きる人間というものを主体的かつ第一義的な存在だと捉える哲学思想のことで、ジャン=ポール・サルトル、ガブリエル・マルセル、マルティン・ハイディガー、カール・ヤスパースなどの哲学者のほか「異邦人」で知られる作家アルベール・カミユなどがその思想の代表者として知られています。
そのような情況を考慮してみますと、深い瞑想に耽りながら「パンセ」の筆を執った晩年のパスカルは、因果律と必然性とを絶対視する決定論的視座から、因果律の絶対性を疑問視し諸々の偶然性を重要視する非決定論的視座へとその立場を変えていったのかもしれません。もしそうだとすれば、歴史に対する見方も大きく変わり、予想できない諸々の偶然事象や誰もが見落としがちなごく小さな事柄が蔭で歴史の変遷に大きく関わっていると思うようになっていったことでしょう。「クレオパトラの鼻が云々」の言葉は、必然と偶然の間にあって葛藤する内的思考の延長上において発せられたものだったのかもしれません。おそらくは、歴史の展開には蔭で小さな偶然が大きく作用していると考えるようになったばかりではなく、人間の意向で歴史そのものが仕立て上げられたり捏造されたりすることもあるものだという事実を十分自覚するようになっていたのでしょう。
(まずは個人の足跡の記録から)
各国の歴史や世界全体の歴史といったものを考える前に、一人の人間の人生の記録――当今流行の言葉を借りるなら「自分史」なるものを作成する場合において、その背景となる様々な情況に少しばかり思いを廻らせてみることにしましょう。それなりの高齢に達した人間が己の人生の足跡を振り返り、それを文字化して残そうとすると、想像していた以上に厄介な諸々の事態が立ち現れてくるものです。まず、過去の出来事についてどれほどのことを記憶しているかが問題となってきます。実際、幼少期から高齢期に至るまでの諸々の出来事を想い出し、それらを簡単な年譜として整理するだけでも容易なことではありません。またそうしてみようにも既に忘却の彼方へと消え去ってしまい再生不可能となった記憶だってあることでしょう。幼少期からその年に至るまで克明な日記でも残しているならまだよいのですが、そんな人はおそらくそう多くはないはずです。また、たとえ克明な日記を残していたとしても、その記録が正確かつ客観的なものだとはかぎりませんし、ましてや記録された事柄の背後にある多くの関連事項の記憶を蘇らせるとなるとそれはもう容易なことではありません。
過去の人生における出来事についての一定レベルの年譜が出来たとしても、それらを基に他者にも自らの足跡を理解し共感してもらえるような一連の文章を書き起こすとなると、単なる事実の羅列だけではなく、一種の創作とも言える作業が不可欠となってきます。換言すれば、それは己の生の軌跡を基にひとつの物語を構成することにほかなりませんから、そこには、良く言えば他人受けする演出、悪く言えば自己顕示欲のなせる嘘が大なり小なり紛れ込んでこざるをえません。冷静に考えてみますと、真実一路の「自分史」などはじめから存在するはずがないのです。ある人物自らが自分史を綴る場合でもこの有様なのですから、他者が著した諸々の人物伝に多々創作が含まれるのは避け難いことなのでしょう。