1938年になるとゲッペルス宣伝相の指導のもと、ナチス・ドイツは一層毒々しい対外宣伝放送を行うようになった。ヒットラーもまた、国際的な宣伝活動は国家社会主義推進にとって不可欠な戦術だと認識していた。彼らはラテンアメリカをはじめとする世界各地の放送局を買収し、当時のソ連と西ヨーロッパ諸国を痛烈かつ言葉巧みに攻撃した。そして、実際、その宣伝放送は一時的には絶大な効果をもたらした。ドイツやイタリアの激しい宣伝放送攻勢に対抗するため、英国はまず、中近東向けのアラビア語放送を行う必要に迫られた。そのため、英国政府は外務省直属の宣伝放送組織を設け、そこを通じてアラビア語放送を行おうと考えた。だが、リースはアラビア語放送に必要な能力を具備しているのはBBCだけだと強硬に主張し、頑としてその立場を崩そうとはしなかった。英語以外の言語による放送をすれば大英帝国の団結が弱まると懸念するBBC幹部の声もあったし、外国向け放送は単なる国家宣伝に堕し、BBCに対する信頼を損なうことになるとしてアラビア語放送に反対する者も現れはしたが、彼はそんな内部の意見をも一蹴した。
(政権に抗し公正な報道を貫徹)
結局、リースの主張通りBBC内にアラビア語放送部門が設けられることになったのだが、当時の英国外務省情報局は、アラビア語放送のニュースにかぎっては自国に有利なものだけを選別し、不利なものは排除しようと考えた。しかしリースはその方針に猛反対し、「BBCは国内放送においてと同様にアラビア語放送においても政府の支配から独立していなければならない。真実を伝え、しかも様々な思想や立場、主義主張に対し包容力のある放送のみが権威をもつに値する」と主張し、外務省の考えを抑え込んだ。BBC海外放送のその後の栄光は、この時の彼の毅然とした態度に負うところが大きいと言ってよい。
アラビア語放送開始からまもなく、BBC海外放送の独立性が立証されるような出来事が起った。BBCの国内向けニュースをアラビア語に翻訳したものが放送されたのだが、そのなかに「反英暴動が起った際に、英国軍当局は小銃と弾薬を所持していたという理由だけでパレスチナ人1人を死刑に処した」という内容のものがあった。外務省の立場からすればそれは真っ先に削除されるべきニュースだったから、当然BBCに対して異議を挟みもしたが、BBCは毅然とした態度を貫き政府筋からの抗議に怯むようなことはなかった。ある英国の歴史家などは、「大胆かつ率直なやりかたで真実を告げることによって、BBCは開設したばかりのアラビア語放送においてのちの信用にも繋がる一石を投じ、自らの理念の高さを示しておきたかったのだろう」とその対応を評価したほどであった。
この年のうちにラテンアメリカに向けてスペイン語とポルトガル語の放送が行われるようになった。むろん、ナチス・ドイツのラテンアメリカ向け宣伝放送に対抗したいという英国政府の思惑もあってのことだったが、ここでもリース指揮下のBBC海外放送部は公正中立の方針を固守し続けた。そして、ファシズムの脅威が日毎に強まりつつある欧州本土に向けて真実かつ客観的なニュースを伝えることを目指し、同年末までには、フランス語、ドイツ語、イタリア語による放送も開始されるようになった。
BBC外国語放送が行われるようになったこの年の6月半ばのこと、現在の英国航空の前身、帝国航空の会長職を受諾してもらえないかという話が当時の首相ネヴィル・チェンバレンの側近を通してリースのもとに持ち込まれた。真相は不明だが、BBCの時事解説におけるチェンバレン批判が厳し過ぎるので、心象を害した首相サイドがリースをBBCから引き離すために一策を講じたのだとも言われている。結局、リースはその要請を受けることを決断し、BBCの経営委員会にその旨を報告した。経営委員一同は突然のことにショックをうけ、帝国航空会長とBBC会長との兼任はどうかとか、ノーマン経営委員長の後任を務めるのはどうかとかいった善後策を持ちかけた。帝国航空の会長はほかの事業の役職兼任が禁じられているためBBC会長の座に留まることは不可能だったが、経営委員長兼任の話のほうは帝国航空側の内規次第では可能かもしれないとリースは答えた。それからしばらく経った6月29日のこと、BBC経営委員会はリースの後任会長を決める会議を開いた。後任者の決定に際してはリースにも隣席してもらったほうがよいのではないかとの意見も出されたが、結局会議はそのまま続行され、彼の知らない間に後任会長が選定された。
(ジョン・リースBBCを去る)
ノーマン委員長からその報告を受けたリースは激怒し、秘書に対し自宅に据えつけてあるBBCの特別な受信機を即刻撤去するようにと命じた。特別に送別セレモニーのようなものが催されることを潔しとしなかったリースは、その日の夕刻独り静かにBBC本社を退出した。そして、ドロイトウイッチにあるBBCの送信所に親友らと車で出向くと、深夜放送終了時に自らの手で送信機と発電機のスイッチを切断した。BBCに入社する前の一技師としての彼の姿がそこにはあった。そのあとリースは訪問者名簿に「J・C・W・リース、元BBC職員」と自分の名前を記載した。「元BBC会長」など記さなかったのは、彼なりの美学あってのことだったのだろう。それから10年以上の間、リースはBBC関係の建物の中に立ち入ろうとはしなかった。ただ、それは、自分が去ったあと新たな指導者の下で一層の発展を目指すであろうBBCに直接間接の影響を与えることを避けようとする彼なりの配慮からだった。けっして会長退任時の経営委員会の不手際に対する怒りが原因だったわけではなかったのだ。リースの退任後、BBCにおいては彼が会長であった当時は実践できなかった組織及び番組編成上の大改革が行われたが、リースによって確立された「権力におもねらぬ真の権威をそなえたBBC」という基本理念は微動だにすることはなかった。
40年リースは男爵の爵位を授けられ、戦中戦後において何度も大臣の椅子についた。身分と家格に厳しい英国社会において自ら道を切り開き相応の栄誉を受けたリースであったが、強固な信念を持つ人間の常として彼は終世孤独で敵も多かった。英国の英雄となったチャーチルが他界したとき、公共の建物はみな半旗を掲げ、国中の新聞がすでに伝説と化していたその偉業を称える記事を載せ、彼の死を悼み悲しんだ。ところが、それら一連の記事の中に、「チャーチルの悪影響が英国から消え去るまでには今後百年を要するだろう」という唯一例外的なコメントが見受けられた。むろんその発言主はリースその人であった。
ザ・タイムズ紙はのちに、「英国民はリース卿の並外れた頑固さにも感謝しなければならない」と書いたのだが、確かに、その頑迷なまでの信念がなかったならば、BBCは世界の良心として称えられもする現在のその地位を確立することはできなかったに違いない。