(米国議会での安倍首相演説に感じたこと)
国賓待遇と喧伝される中で訪米した安倍首相が、バラク・オバマ大統領との親交を広くアピールするかたちで会談を行い、諸メディアによる鳴り物入りの報道合戦のもと、上下両院合同議会での演説を終えてからはや1ヶ月余が経過した。複雑かつ困難な当今の世界情勢に対応するため、戦後70年に及ぶ日米両国間の固い絆の意義を再確認し、今後一層その連携を強化していこうとの趣旨のスピーチには賛否両論があったものの、米国側による外交辞令も一役買って、表向きにはそれなりの評価も受けたようである。だが、いささか斜めから物事を眺める悪癖のあるこの身などには幾分違和感が残ったのも事実だった。
先の大戦において硫黄島での激戦に臨んだ日米の元兵士二人を登場させて握手をさせ、両国の和解と発展の象徴にするという手の込んだ演出などもなされた。そして、臨席した議員の全員がスピーチの進行に応じて度々スタンディング・オベーションを繰り返しもしたので、議場の雰囲気は大いに盛り上がったようだ。将来にわたる日米の強固な連携を確約するものとして、その成果を讃えるメディアがあったことも事実である。
ただ、近々沖縄の普天間基地移転問題を全面解決できるような印象を米国民に与え、首相自身の唱える積極的平和主義推進のため日本国憲法の解釈変更を行って集団的自衛権の拡大を図り、ひいては第九条をはじめとする憲法改正を極力国民的議論の回避を目論みながら現政権下で強行しようとする姿勢には率直なところ賛同できない。
確かに、世の法規や規範というのものは時代の要請や価値観の推移に応じて徐々に変容を遂げていくべき宿命を負うており、憲法といえどもその例外ではありえない。絶対不変の憲法など存在しないのは事実である。だが、そうは言っても、時の為政者が自らの政治理念の実現優先のために国民間の真摯な議論を避けるという姑息な手段をとるとすれば、どう弁明したところで卑怯の謗りを免れることはできまい。
直属のスピーチライターや政権寄りの一部外務官僚らが練り上げた英文原稿を誇らしげに読み上げる安倍首相の姿は、当初こそそれなりに見栄えはしたものの、半ばを過ぎる頃になると何処か痛々しくさえ感じられるようになった。演説に臨むに当たって一応の事前演習なども積んではいたのだろうが、スピーチが終わりに近づくにつれて原稿の棒読みに変わり、自分でも何を言っているのか分からない状態に陥っているのではないかとさえ思われた。もちろん、英文の元原稿が各議員や諸メディアにはあらかじめ配布されていたようだから、スピーチ内容そのものは先方に伝わってはいたのだろうが、冒頭部に自身の米国留学や企業勤務時代の米国出向体験談を折り込んだ話の展開だっただけに、それならそれで最後までもう少し自然なリズムと発音で通すことはできなかったものだろうか。
米国両院合同議会、さらには広く米国民を対象にしての歴史的スピーチだから英語で行ったのは当然だと言えばもっともらしくも聞こえはする。だが、皮相な見方をすれば、「私は英語だってこの通りちゃんとできるんだぞ」という日本国民向けの自己アピールのようなものも幾分垣間見られるような気がしてならなかった。両院議員らによる儀礼的スタンディング・オベーションなどの演出が事前に十分配慮されたうえでのスピーチだったようだから、成り行き上からも英語で通すしかなかったという事情はあったのだろうが……。
米国海兵隊の駐屯する普天間基地の辺野古移設問題ひとつをとっても、もしそれが唯一無二の解決策だと主張するなら、せめて米国議会の議員や一般国民に対して沖縄の海兵隊が米国にとってどのような現実的意味をもち、どのような利点があるのかを問いかけ、さらには想定される非常事態において米軍がどのレベルの実行動をとれるのかを真正面から確認し、そのうえで集団的自衛権の拡大に臨む日本政府の覚悟を毅然とした態度で弁じてほしかった。それが首相のかねてからの持論であるように、日本国憲法が米国を主体としたかつてのGHQによる押し付け憲法であるというのなら、「平和憲法とも讃えられる現在の日本国憲法は、実はあなたがたの国が中心となって我が国に押し付けたものである。現在の世界情勢下において我が国が米国と連携し積極的平和主義の実践に邁進するためには、戦争と武力の放棄を謳うこの憲法の第9条を改正しなければならない。この問題についていま米国民はどのように考えているのか。正直、私はいま困った状況に置かれている」といったような趣旨の問い掛けくらいは、たとえユーモアやウイットまじりではあったとしても、堂々とやるべきではなかったかと思う。「押し付け憲法論」を唱えるなら、かつてのその責任国に一言くらいは苦言を呈するのも筋だろう。真の友好関係というものは相互の負の側面も十分認識したうえで初めて成立するはずのものだからだ。
(操り人形を連想させるその姿)
以前に、安倍首相は、「GHQの憲法も国際法もまったくの素人がたった8日間で作り上げた代物だ」という発言をしたことがある。もし、首相が心底そう信じているとすれば、私は政治家としてのその資質を疑わざるをえない。現憲法を下敷きにした自民党の改正憲法草案でさえも、その善し悪しはともかく、それなりの専門家が関わり相当な時間をかけて練り上げたものであり、とても8日間などで出来たとは思われない。ましてや、現行の日本国憲法を素人の欧米人らがたった8日間で起草などできたはずがない。たとえ草案のすべてがすでに英語で起草されていたとしても、それを8日間であのような日本語に翻訳するなど不可能であったろう。確かに、男女両性の本質的平等性を謳った憲法24条をはじめとする人権条項の起草に深く関ったユダヤ系オーストラリア人女性、ベアテ・シロタ・ゴードンのように、なかには法律の専門家でない人物がいたりもした。しかし、実際には欧米の法律の専門家ばかりでなく、日本人専門家も数多く関っていたのである。
如何にも自信ありげに振舞う安倍首相の姿がどこか軽佻浮薄に感じられてならないのは、その言葉の一語一語が真にその胸中深くに根付いた政治哲学に基づいて発せられているものではないからだろう。首相自身がそれを自覚しているか否かはともかく、蔭にあって意図的に入れ知恵し、巧みにその姿を操り笑う一群の勢力が存在することは事実だろう。安倍人形はそれらの勢力にとって便宜このうえない存在であるに違いない。
安倍首相の訪米に先立つあるテレビのバライエティ番組で、堀江貴文氏が、「me、we、now」の法則なるスピーチの極意を紹介していた。まずごく私的な内輪話をして聴衆の親しみを買い、続いて仲間意識を高め煽って、最終的には現在の自分の主張を広く訴えかけるべきだというのがその骨子だ。米国での過日の首相演説は見事なまでにその法則にのっとったものであった。それが首相自らの構想によるものだとは到底思われない。