時流遡航

《時流遡航:233》哲学の脇道遊行紀――実践的思考法の裏を眺め楽しむ(19)(2020,07,01)

(当今の政界を斜めから眺め見た老いの戯言)
 新型コロナウイルスの出現に起因する一連の社会状況の展開を通して、人々の目にはっきりと見えるようになってきたものは少なくありません。この国の現政権の「ご立派な姿」が見事なまでに浮き上がり、図らずも国民の目を惹きつけるようになったことなども、そのひとつではあるでしょう。現実とは遠くかけ離れた高邁な政治理念や、余人には近寄り難い崇高な正義感を高々と掲げ、自らは過ちなど絶対に犯しはしないという態度を誇示しながら、一方ではその政治的主張や指針が危うくなると、瞬時にして180度の方向転換を試み批判をかわす雲上人のお手並みのほどは、絶賛に値するとしか言いようがありません。
都合の悪いことが生じると、「すべては自らの責任です」という虚言コロコロウイルスの発生源ならではの軽やかさで受け流し、忖度ペコペコウイルスに感染したお取り巻きに一切の責任を丸投げして事態を切り抜けるその巧みな身のこなし方には、ひたすら感心するばかりです。理念の高さを装うため極力自らの言葉では語らないようにし、プロンプターに投影される腹心や忖度官僚らの作成原稿をさりげなく眺めつつ国政方針を誇示してみせる手法には、学ぶべきものが多々あるようにも思われます。常々できるかぎり自らの言葉で語るように努め、それゆえにまた失敗も反省点も少なくないこの身などには、その爪の垢でも煎じて飲ませてもらったほうがよいのではないかという気さえしてくる有様です。
 東日本大震災に伴う非常事態への諸対応に戸惑った前政権の混乱ぶりを「悪夢」と呼んで揶揄嘲笑する一方で、今般のコロナウイルス禍への対応では国民に「良夢」を見させてくれたつもりでいるらしいその政治舞台での芸風に、この際、喝采を送ることに致しましょう。「マスクを配布すれば国民が喜びます」という愚官の言葉を真に受けて「良夢」を見たご当人は、いまもなおその夢から覚めることを望んではおられないようです。「責任」とか「反省」とかいう言葉を多用しながらも、その言葉の真意さえご存知ないらしい国語力の御仁にしてみれば、当然のことではあるのでしょう。もしかしたら、「悪夢」と「良夢」の意味するところがその心中では世人のそれとは逆転さえしているのかもしれません。そうだとすれば、近いうちに、「悪夢と良夢という言葉は従来の意味を逆に入れ換えて用いるものとする」などという珍法案が国会に提出されることにもなりかねません。
不慮の事態の下にあって日々の生活に苦しむ我われ庶民にしてみれば、「良夢」から覚めた途端に最悪の事態と向き合うことになるくらいなら、そのまま「良夢」に浸っていたい気もしないではありませんが、現実はそう甘くはないのでしょう。あのときの政権は「良夢」を見せてくれるふりだけはしてみせたが、その夢から覚めて目にしたのは「悪夢」どころか悲惨極まりない生き地獄だったということにならないようにと願うばかりです。
 ともかくも、そんな品格ある政権を率いる御仁やその取り巻きの有能な議員の面々を支持選出し、有り難いその恩恵に浴し続けているらしい国民は、不平不満などどこ吹く風と自らの先見の明を誇るべきではあるのでしょう。昨今では自身の「先見の暗」を深く嘆く人も増えてきているらしいとは耳にしますが、そのような人々は、一時的ではあるにしろ何でもありの一強政権を崇め奉った「自らの賢明さ」の限界を、真摯に見つめ直してみるべきなのでしょう。いずれにしろ、そんな政権に長期存続という偉業をなさしめたのは、結局、我われ国民だったわけなのです。立派な家柄の御仁ゆえに、人としてのその品格を信頼もしたし、今でもそれを信じて疑わないという心優しい人々が多いかぎり、「絵に描いた餅」ならぬ「絵に描いた善政」なるものはなお続いていくことでしょう。
(政治家の具備すべき資質とは)
 ところで、優れた政治家の資質とはいったいどのようなものなのでしょうか。人間というものは誰しも少なからず失敗や過ちを犯すものですから、どんな事態に直面しても国政を完全無欠に遂行できる能力を求めてみても意味はありません。たとえどんなに評価の高い政策を実践したとしても、それに反対する人は必ずや一定割合存在しているものです。国政を司る政治家にとって強い信念や不退転の決意を持つことは重要ですが、それは自らの判断の誤りやそれに起因する失政を一切認めず、綺麗ごとを連発し、責任を他者の所為にしつつ権力の座に執着することではありません。ましてや、自らの名を遺すため政治的レガシーなるものの追求に執着し、それゆえに拙速な憲法改正や、本来なら主催都市が表に立つべきオリンピック開催を主導しようとするなど論外だと言うべきでしょう。
 常々言われていることですが、政治家にとって言葉は命そのものです。政治などとは無縁な存在であっても、ある人物の吐く言葉というものは、その善し悪しに拘らず、当人の本質をおのずから物語りもするものです。ましてや、いざというときに心の底から湧き上がる言葉をもって国民に語りかけることのできない政治家などは、所詮「政治屋」の域を抜け出ることはできないでしょう。それが善政であれ悪政であれ、真の意味で強い信念と責任感をもって政治に臨む人物の言葉には、古今東西を問わずそれなりの重みがあるものです。如何に長期の政権維持を誇ってみたところで、プロンプター依存の弁説や杓子定規の自己弁明、さらには取り巻き衆の代替答弁に頼るしかない人物にどれほどの政治的資質があるのでしょう。そのうえ病的なまでに自尊心が強いときていますから話はますます厄介です。
 芯のある政治家というものは、理念や主張の異なる他者からの厳しい批判を受けたとしても、相手の立場を尊重しながらユーモアやウイット、さらには軽妙なジョークなどでそれらを受け流し、逆に自身の主義主張を鄭重に説きかけたりもするものです。無論、そのためには心的度量と高い言語能力が具わっていなければなりません。自らの弱点や主義主張の矛盾を衝かれ、すぐ逆上したり他人に責任転嫁したりするような政治家は、傲慢というよりも心が幼稚そのものなのだと考えたほうがよいでしょう。そんな人物と真摯に向き合うのは、この際やめたほうが賢明です。唯一の対応策は、その人物やその存在を蔭で操り自らを利する取り巻き衆に次の選挙では貴重な一票を投じないようにすることでしょう。
 外交的成果が大きいと評価され意気揚々のご様子ですが、言葉が基本になっているはずのその世界において、言語が未熟なその御仁にどれほどの能力があったのでしょうか。多額の国費を使い多数の随行員を伴って国際会議の場にやたら顔を出しただけのことであって、自力で何らかの外交成果を上げたなどとは到底思われないのです。米国大統領を諫める気概のかけらすらないみたいですし……。辞任した前東京高検検事長などが退くに退かれぬ自身の状況に辟易し、自らを告発してくれるよう極秘裏に週刊誌サイドに工作した可能性だって皆無だとは言えません。邪推が過ぎると言われればそれまでではありますけれども。

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