時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――実践的思考法の裏を眺め楽しむ (7)(2020,01,01)

(常識とは異なる結果につながることもある生活体験)
 一般的には、暗い所で長時間勉強などを続けたりすると目が悪くなると信じられています。明るいところで読書や執筆作業をするのが当然とされ、誰もがそのような生活習慣を身につけるようになった現代においては、実際、暗い部屋で長時間にわたって目を酷使したりしたら視力に悪影響が及ぶことは間違いありません。そのことを予めお断りしておいたうえで、今では到底考えられないような自己体験のひとつと、それが自らの心身にもたらした意外な影響について少しばかり述べさせてもらうことにしましょう。
 前述しましたように、私が中学生時代までを過ごした離島の当時の火力発電施設の発電能力は極めて低く、電力不足は常態化していました。発送電は夜間しか行われなかったので、辺りが暗くなった夕刻に電燈が灯り、朝方外が明るくなってしばらくすると自然に消えるという有り様でした。しかも、通常の家庭の場合、各戸に1灯だけしか割り当てられていなかった電燈は、20Wの白熱電球を1個だけ天井からぶら下げただけのものでした。現代のトイレの電燈よりももっと暗いくらいだったわけで、その明るさが40Wまで増強されたのは私が中学3年生になった頃だったように記憶しています。そしてその40Wの電燈を目にした時などは、とても明るくなったと感動を覚えたりもしたものでした。もちろん、20Wでもそれなりに明るい蛍光灯の類などは全く存在していませんでした。
各戸に1灯しか設置が許されていなかったのですから、二股ソケットやコンセントのようなものはどの家にも一切配備などされていなかったわけで、当然のことですが、現代にみるような炊飯器や掃除機、冷蔵庫などの電化製品の類にはまるで無縁の世界でした。もちろん、個々に電源を必要とするテレビやラジオなどはあろうはずもなく、船便の関係もあってほぼ1日遅れで届く新聞以外の情報源と言えば、常時NHK第一放送のみが流されている村営の有線ラジオがあるばかりでした。しかも、集落内にはそんな新聞や有線ラジオにさえも縁のない家庭が随分とあったものなのです。現代文明に慣れ親しんだ昨今の若者らがそんな話を聞いたりしたら、近代社会以前の極貧の庶民生活にも等しいそんな暮らしなどには到底耐えられそうにないと思うに相違ありません。まだ鹿児島県内では鹿児島市においてさえもテレビ放送が見られない時代のことでありましたが、たまに祖父に連れられて本土の知人宅を訪ねたりする時に、チャンネルを切り換えていろいろな放送を聴けるラジオがあったり、昼夜にかかわらず好きな時にどの部屋でも明るい電燈を灯すことができる様子を目にしたりすると、子ども心にも羨ましく思われたものでした。
 現代の日本の状況からすれば想像するのも難しいそんな環境のもとで育った私などは、必然的に、20Wの、しかも高く吊るされた各戸に1個の傘つき電燈の下で夜遅くまで勉強をしたり、苦労して手にした本や新聞などを読んだりもしたものです。凄まじい暴風雨に襲われる台風シーズンともなると、1週間や2週間停電状態が続くのは当たり前のことで、その間は灯油ランプや蝋燭に依存する生活をせざるを得なかったわけですから、屋内の夜の照明度ともなると一層低いものでした。そんな状況下で学習や読書のほか様々な物作り作業などを毎晩のように行い、そのことをとくに意識をすることはなかったものの、随分と目を酷使していたわけですから、現代的な常識や感性に基づけば、のちのち目が悪くなるのは当然の結果だということになるはずでした。しかし、意外なことに、現実にはそうはならなかったのです。
 成人し、都会に出てからの私は、仕事柄もあって数多くの書籍を読み込み、論文や文芸関連の原稿執筆に追われ、その一方にあってはコンピュータ教育関連の研究事業などにもあれこれと関わってきました。そして、そのような状況から考えてみますと、遠の昔に視力が衰えていても少しもおかしくないはずではあったのです。しかし、現在77歳となり後期高齢者に属する身となった私なのですが、今なお老眼鏡は使用しておらず、ルビを含めて新聞や雑誌の活字を読むことにもとくに不自由は感じておりません。さすがに極端に小さなルビなどを読むとなると折々ルーペを必要とすることもありますが、そのようなケースはごく限られたものになっています。また、かなり薄暗いところでもいまだに文字を読むことは可能です。さらに興味深いことには、同じ離島育ちの同年代の高齢者らで老眼鏡を用いずに済ませている者がかなりの割合で存在してもいるのです。
 もしかしたら、限られた光量のもとで幼少期や少年期を送ったという経験が、視力というものに関するかぎりは、何かしらプラスの要因となって働いているのかもしれません。もちろん、実生活の中で日中に広大な海原を眺めたり、遥かな水平線を凝視したりし、夜間には満天の星々を仰ぎ見ることの多かった離島暮らしが影響している一面もあるのかもしれませんけれども……。それはともかく、20Wの電燈やランプの光などでさえも明るいと感じながら育ち、そこで諸々の活字類を読んだり思考を重ねたりすることを通して自然に身につけた集中力が、のちのち大いに役立ったことだけは確かなようです。インドやチベットの奥地に暮らす人々が、現代文明に慣れ親しんだ者の目からすると想像を絶するような暗さのなかにあっても凄い知覚能力を発揮するという噂などをよく耳にすることがありますが、もしかしたらそれと何処か相通じる状況が起こっていたのかもしれません。
(時代遅れのラジオのおかげで)
 貧しい村ゆえの有線ラジオ放送などについても同様で、NHK第一放送が常時流れっ放しになっていたわけなのですが、折々それを通して耳にするニュースやドラマ、各種名作類の朗読などは、幼い心にもそれなりの力をもって強く響き伝わってきたものでした。言葉に対する独特の感性がそんな生活を通して磨かれることになったといっても過言ではないのでしょう。信仰心などにはおよそ無縁なこの身であっても、聖書のなかにある「汝幸いなるかな、貧しき者」という一節などを引き合いに出してみたくもなるわけですが、いま顧みてみると、貧乏生活にもそれなりの利点はあったということなのかもしれません。
 どこでそんな知恵を身につけたのかはもう記憶にありませんが、有り合わせの素材でごくシンプルな有線放送受信機を作ったこともありました。厚さ1~2センチ、直径10センチ弱の円筒形アルミ製蓋つき歯磨き粉の空き缶に、有り合せの鉄線や銅線で簡単なコイルを作って中に収め、そのコイルの両端から延ばした2本の導線を戸外の低電圧の有線ラジオ送信線の裸出部に接続したものです。するとコイルに生じる磁気振動にアルミ缶全体が共鳴し微かながらも音声が聞こえてきたものでした。子どもながらにその理由を考えたりした体験がのちに科学の世界に興味をもつ端緒となったことは言うまでもありません。

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