時流遡航

《時流遡航》電脳社会回想録~その光と翳(22)(2014,03,01)

「電脳社会回想録」というこのテーマには今回あたりで一応の区切りをつけさせてもらおうと思っていたのだが、その矢先に公共放送のありかたに深くかかわる事態が持ち上がってきた。それゆえ、もう少しこのテーマのままで話を続けさせていただきたい。過日、籾井勝人NHK会長や百田尚樹・長谷川三千子NHK両経営委員が、まるで安倍首相の内なる思いを代弁でもするかのような発言をしたため、公共放送の存立基盤を危うくする行為だとして問題視されるようになっている。そして、公共放送の中立性に深く関るこの種の議論が生じた場合によく引き合いに出されるのがほかならぬ英国BBC放送である。

(AICでBBCの歴史を執筆)

実を言うと、かつてのAIC欄において私が長期にわたって執筆し続けた「ある奇人の生涯」という作品では、戦前・戦時・戦後の国内や中国大陸各地の有り様のなどほか、終戦後間もない頃の英国社会の実状を取り上げた。なかでも当時の英国BBC放送の刮目すべき状況や、それを支える放送理念確立の過程とその歴史的背景については、詳細な取材を基にして相当に踏み込んだ執筆を試みた。私が大量の原稿を書き綴ったAICの責任編集を担当したのが穴吹史士記者だったことは既に述べた通りである。一連の執筆記事のバックナンバーは、現在、南勢出版と工学図書のホームページ上に私のほかの原稿類と合わせて収録されている。少々押し付けがましいが、筆者名を検索してもらえばアクセスできるので、関心のある方は何かの折にでもご笑覧願いたい。

ただ、あらかじめ一言だけお断りしておくが、私の名前をグーグルなどで検索してもらった場合、「本田成親(ishiharasintaro)on Twitter」なる項目が表示されることがある。この項目やそこに表示されている発言内容、主義主張、さらにはそこに登場する人物らとこの私とは一切関係がない。そもそも私はツイッター自体をやっていない。

この「時流遡航」の48回と49回において、日本の一部の政治家たちの言動について厳しい意見を書き述べたところ、その直後から、筆者の名前を騙った一種の「なりすまし」行為的なその表示が現れるようになった。この種の事態が生じるのはネット社会の宿命とも言うべきことなので、ユーモアの精神をもって「しがない百円ライターのこの身によくぞそこまでご便乗を」と受け流し無視することにしているが、私と直接面識のない人などがそれらの内容を目にしたような場合には、誤解を招いたりしかねないおそれはある。

正直なところそこまで書くつもりはなかったのだが、朝日新聞東京本社での野村秋介拳銃自殺事件に絡むNHKの長谷川三千子運営委員の追悼文の内容がたまたま問題になったので、この際、少しだけその一件にも触れておくことにしたい。その追悼文の中で「彼らほど人の死を受け取る資格に欠けた人々はゐない。人間が自らの命をもって神と対話することができるなどということを露ほども信じてゐない連中の目の前で、野村秋介は神にその死をささげたのである」と酷評された朝日側の人物の一人は他ならぬ穴吹史士さんだった。自殺事件のあった93年当時の週刊朝日編集長だった穴吹さんは、朝日新聞社長とともにその現場で野村氏に対応していた。なおその年には、私も同誌で連載コラムの執筆を担当していた。

穴吹さんから直接聞いた話によると、朝日サイドは終始一貫して鄭重な対応をとっていたのだという。だが、まるで三島由紀夫の向こうを張るかのように、極度の自己陶酔状態にあった相手は、拳銃自殺を図るに至るまで一貫して教条的に振る舞い、朝日側の意見を聞く耳を全く持たなかったのだそうだ。週刊朝日による「風の会」の風刺漫画掲載に抗議するため朝日本社を訪れたということになっているが、他にも特別な事情や思想背景を背負っての確信犯的決死行動だったようで、単に「朝日憎し」というだけのことではなかったらしい。

筆者の知る限り、穴吹さんは、「人の死を受け取る資格に欠けた人」ではなかった。もしそうだというなら、穴吹さんと懇意だったうえに、野村氏が自殺直前に「すめらみこと いやさか」と称え、また長谷川三千子氏が現御神(あきつみかみ)と崇める天皇陛下が60年前に訪英した際の姿を「人間皇太子」としてAIC欄で親しみ深く描いた私などは、「くずの中のくず」と呼ばれても仕方のない人間だということになるのだろう。元々愚かな人間だから、敢えてその事実を否定する気はないのだけれども・・・・・・。

(「ある奇人の生涯」執筆動機)

03年1月から06年5月の3年5ヶ月にわたって筆を執った「ある奇人の生涯」は、石田達夫という波瀾万丈の人生を歩んだ稀代の人物についてのノンフィクション風長編伝記小説である。足掛け9年間に及ぶAICでの連載の中でも特に心血を注いだこの作品は、400字詰め原稿用紙換算で1800枚もの分量に達した。ウエッブ上で、しかも、原稿料などいっさい気にせずそんな長編作品の執筆にこだわったのは、インターネットというものの可能性を探るのに不可欠な一種の試行実験だと考えていたからでもある。試行とはいえ、取材や資料収集においても、また執筆内容の充実やそのために必要な文体の構成などに関しても、細心の配慮と最大限の努力とを重ねたことは言うまでもない。なお、いささか宣伝がましいが、本作品はA5版2段組み750ページの上製本として昨年秋に木耳社より刊行され、アエラ誌などでもそのことが紹介された。

この作品を執筆する契機となったのは、長野県安曇野市穂高町における故石田達夫氏との運命的な出遇いである。いまから二十五年ほど前のある初夏の夕刻近くのこと、穂高駅前で観光案内板に見入っていた私は、突然、見知らぬ不思議な老人に声を掛けられた。旅先ではからずも出遇ったその老人は、「奇人中の奇人」とも言うべき世にも稀なる人物だった。しかも、この老翁はその体内深くに驚くほど壮大な真実の物語を秘め隠していたのである。

この老翁の不思議な魅力に取り憑かれた私は、誘われるがまま足繁く信州安曇野の地へと赴くようになり、やがて、生涯にわたってその人物の体内深くに刻み埋め込まれてきた途方もない人生のドラマを知るところとなった。それらすべてを体系的に語り尽くすことを必ずしも潔しとはしていなかった老翁に、あの手この手と知力の限りを尽くして迫り立ち向かった私は、その口から隠れた大正・昭和史とでも言うべき凄まじい体験談を引き出すことに成功した。取材用録音テープや取材ノートの記録は膨大な量にのぼり、それらの内容を整理するだけでも多大な時間と労力を要したが、貴重な証言の数々はその間の苦労を補ってなお余りあるものであった。また、紛れもない事実に基づくそれら一連の珍談奇談は、私個人の記憶と記録の中にのみ留め置くにはもったいなさすぎるものでもあった。

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