時流遡航

《時流遡行》コンピュータから見た人間の脳(過去の講演録より)――(4)(2017,03,01)

  (松本グループの海馬研究が明かしたもの)       
 人間の脳が非線形型の複雑なバイオコンピュータだからといって、研究を諦めるわけにはいかない脳科学者らは、脳神経細胞の疑似モデルをつくり、それに電気信号を与えるとランダムに疑似神経細胞どうしが結合するようなシステムを考案しました。そしてその中で疑似神経シナプスにどんな刺激を与えればどう反応しどう結合するかを調べようとしました。人間特有の思考過程を巧く処理できない現在のコンピュータをより人間的なものにするべく、医学・工学両面から生物学的機能を重視した脳型コンピュータの研究を進めようとしたわけです。それがニューラルネットワーク・コンピュータと呼ばれるものです。
 多くの研究者が様々な角度からニューラルネットワークの研究を行っていますが、なかでも世界最先端の研究をしているのが電総研の松本元さんのグループ(講演当時)です。松本さんは、当初、研究対象を大脳・小脳ではなく海馬に絞り込みました。なぜ海馬に絞ったかというと、海馬の神経細胞はもの凄く活発で研究に適していたのがその理由です。ただ、海馬の場合でもその神経細胞数は膨大ですから、松本さんは、海馬のある断面だけに含まれる神経細胞分布モデルをニューラルネットワーク・コンピュータ上につくりシミュレートすることを考えました。その結果、いろいろなことが明らかになってきたのです。
脳梗塞患者の場合には海馬の細胞が死んでしまうことが多いのですが、その患者を調べてみると、海馬に損傷が生じる前の記憶はなお確かなのです。ところが最新の記憶は定かでない。たとえば海馬を損傷した患者に何か絵を見せ、直後にそれを隠して描画内容などを質問すると全然記憶に残っていないんですね。だから海馬というのは短期記憶、すなわち、現在進行中の事象データを処理する部分だということがわかるのです。また、どうして海馬損傷者が過去の記憶を失わないでいるかというと、それらはいつでも引き出せる状態ですでに大脳に保存されているからだというのです。ところが、現在の出来事を記憶処理する海馬の部分が働かないと、直前に起こったことが分からなくなる。海馬が酷くやられてしまうと、そこが情報のゲートですから大脳に情報が届かなくなるのです。
 海馬の機能が正常な場合、与えられた刺激の一部が大脳に届くわけです。もちろん、つまらないことまで全部覚えていたらそれはそれで大変ですから、海馬で情報を取捨選択し、刺激の強いものだけを長期記憶を司る大脳に送り込むようになっているのです。お酒を飲む人の場合によく起こることなのですが、ひどく酒に酔うと一時的に海馬の機能がマヒすることがあるんです。ひどく酔っ払って、ご本人はそのときのことを全く憶えていないのに、不思議なことに帰りの道順だけはちゃんと憶えているんです。それはどうしてかと言うと、駅から家へ帰る道順、これは大脳の長期記憶の中にしっかりしまい込まれているから大丈夫なのですが、短期記憶を処理する海馬の一部がマヒしてしまっていたため、何処を通ってきたのか全然記憶にない。海馬というのはそんな不思議な器官です。昨今問題になっている認知症も海馬機能の不具合と関係しているのかもしれません。
 松本元さんとの歓談中に大笑いしてしまったんですが、真の研究者の努力が如何に凄いかという話を少しばかりしてみます。松本元さんは脳の研究を進めるに際し、まず生きた神経細胞の研究をする必要があると考え、生物の中で一番大きな神経細胞をもつイカに着目しました。そして研究所でイカを飼うことにしました。むろん死んでしまったら困りますから、どんな環境だったらイカが長生きするか研究し始めたんです。だが厄介なことにイカがすぐ死んでしまう。食塩濃度を調整したり水流を工夫したりしてもうまくいきません。意地悪な研究者仲間は、ニヤニヤ顔で「今日はイカが何匹死んだの?」と尋ねながら、ワサビ醤油を用意して現われる始末だったそうです。水槽の壁にぶつかるからだろうとか、個体が多すぎるからだろうとか考え、いろいろ試してみたもののやはり駄目だったそうです。原因を突き詰めていくうちに、活性反応を通してイカが放出するアンモニアが原因らしいと解ってきました。そこでアンモニアを除去しようと、各種のアンモニア除去装置を使ってみたのですが、それでもうまくいかない。この時点までで3年半が過ぎたそうです。
電総研の上司に「君、いい加減にしろよ。国の予算使ってるんだから」と言われ、松本さんも断念しようかと思ったそうです。ところが、研究に疲れ果て、気分転換のため大磯の海岸に出向いてたまたま潮溜まりの生物を見ていると、「イカと同じ軟体動物でアンモニア発生するはずなのに、なんでこいつらは死なないんだ」という疑問が急に湧いてきたというんです。アンモニアを分解する天然のバクテリアが存在するのではないかと閃いて、すぐそこの砂を持って帰り分析したところ、予想通りアンモニアを分解するバクテリアが見つかったんです。「これだ!」というわけでそのバクテリアをイカ飼育用の水槽中で培養し、遂に成功を収めたというんですが、ここに至るまでに5年もかかったそうなんです。
(脳は自己中心的コンピュータ)
こうして生きたイカの神経細胞の研究が可能になり、そこで得られたデータをもとに神経細胞の結合モデルをコンピュータ上で実現する研究に入り、他の生物の神経細胞の研究を経て、最後に人間の神経細胞のモデルをつくったわけです。それを実際に目にすると大変感動的なのですが、一部に刺激を与えると、まるで一点から明りが広がるみたいに周辺の神経細胞に活性反応が拡散していく様子がわかるんですね。この基礎研究から判明したことは実を言うと皆さんがよくご存じのことなんです。常に情報を入力し海馬を活性化しておくと、海馬は通常よりも何倍も反応速度を増し、反応領域も広がっていくんですが、情報入力をやめると1日か2日ですぐ元に戻ってしまうんです。ルーティンワークが必要なことが、科学的に裏付けられたというわけですね。また、一夜づけの試験勉強で憶えた知識が試験終了後すぐに消え去ってしまうのは、知識が海馬の段階に留まり、大脳には達していないからなんです。短期記憶として処理されたデータのうち刺激の強いものは、睡眠中などに大脳に送られ長期記憶として蓄積される。その場合、大脳皮質が電気的に刺激されるものだから夢をみるのではないかとも考えられるようになりました。
松本さんらによる工学サイドからの脳の基礎研究を通して得られた重要な発見は、「人間の脳というものは、自己存在を自ら意義深いものだと思う、あるいは他者からそう思わされるときに最大限に活性化する遺伝構造を具えたコンピュータである」という事実です。なんとも自己中心的で厄介なコンピュータなんでが、「脳は意欲で働くバイオコンピュータである」とも言い換えられるわけです。優れたプログラムがあればよく動く物理的コンピュータと違って、脳というバイオコンピュータはそんな変わった特性を持っているのです。

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