時流遡航

《時流遡航》夢想愚考――我がこころの旅路(9)(2017,06,01)

 《尾形仂さんの講演に眼を開かされる 》
 この際だから、尾形仂さんとロナルド・キーンさんのお二人についても思い出話を綴らせてもらおうと思う。本来なら、お二人の名前には「先生」をつけて記述すべきところなのであるが、大岡信、谷川俊太郎の両先生についても「さん」づけ呼称で通させてもらったので、それに倣い、ここでも一貫して「さん」づけ表記を用いることをお許し願いたい。
今は亡き尾形仂さんは、前述した96年の「奥の細道文学賞」授賞式において、大岡信さんとロナルド・キーンさんを交えた3人の選考委員を代表し、受賞作品の内容を詳細に講評してくださった方である。授賞式当日、会場入りした私は、極度の緊張に身を強張らせながら、案内係に導かれるまま指定された席に着いた。すると、既に私の左隣の席に座っておられたスーツ姿の紳士から、「気を楽になさってください」と一言声を掛けられた。実はこの人物こそがほかならぬ尾形仂さんだったのだ。壇上に上らされ賞状や記念品の芭蕉翁ブロンズ像を授与される前に、尾形さんによる受賞作品についての講評がなされたわけなのだが、終始緊張のしっぱなしだった私は、正直なところ、その折の尾形さんの講評内容については全く記憶がない。ただ、その場に同行していた妻などから、あとになって「素人紛いのあなたの作品にしては、驚くほどの高評価だったわよ」と聞かされて、幾分かは安堵するとともに、一方では穴があったら直ぐにも入りたい気分にもなった。
 その翌年のこと、第10回奥の細道・芭蕉講演会が草加市アスコホールで催されることになり、私はその講演会の前半部で拙い講話をさせられることになった。そんなわけで、己の無知をも顧みず、会場を埋め尽くす方々に向かって、「旅と私」というテーマで自らの人生行路や実際の旅の諸体験に基づく拙話を披露したような次第だった。そして、そんな私に続いて、後半部の主講演を担当されたのが尾形仂さんだったのだ。芭蕉や蕪村研究の第一人者であられた尾形さんのその際のお話はなんとも興味深いものであった。
尾形さんはその講演の前半で、現存する古典文学関係の文献類や各種資料の正当な価値判断、それらの内容の真贋判定の難しさなどについて、専門家としての立場から率直な意見を述べられた。いつの時代にも文物の贋作づくりの並外れた天才は存在するもので、古文献類などの場合には、時代が経ってしまうとその道の専門家にとってさえも完璧な真贋判定は難しく、7割方本物だと思われても3割方は偽物の疑いが残ったりもするものだという話などを披露された。その真贋鑑定にご自身も直接関わった具体例を幾つか挙げながらの講話の展開だったので、納得させられることしきりであった。上質の画仙紙や厚手の和紙にしたためられた貴重な墨書など場合、下手に修理に出したりすると、天才的な技術の持ち主の手によって、特殊な刃物と技法を用いて作品全体が上下二枚に薄く剥ぎ分けられてしまうことがあるのだという。そして、本来の作品の所有者が全く知らないうちに、見事に切り分けられた下側の部分を用いて、勝手にもうひとつの本物そのままの墨書が作ったりもするのだそうだ。そうやって作られた特殊な書軸などが登場したりすると、それが本物だとも偽物だとも明断し難い事態に陥り、話はとても厄介なことになってしまうというのでもあった。
その講演の数年前に大阪の古本屋で見つかった「奥の細道」の決定稿とされるものに関しても、部分的にみると明らかに芭蕉以外の人間の筆跡が多数混在してもいるため、どこまでが芭蕉の真筆でどこまでが弟子たちをはじめとする他者の筆によるものなのか、容易には判然としないところがあるとのことであった。どうやら人間の五感による古文献類の鑑定などにはおのずから限界が伴うもののようであるらしかった。
昨今、人気を博している古美術品類の鑑定を売りにしたテレビ番組などを折々目にするにつけても、その際の尾形さんのお話が思い出されてならない。現実の文化財鑑定というものは、如何に優れた鑑識眼を持つ人物であっても、それほど短時間でその真贋判定や価値評価を下せるほど容易なものではない。もちろん、一見しただけで贋作だと判別できる物もあろうが、むしろそれは例外的なほうだろう。藝大などの研究者、著名な美術館の優れた学芸員、さらには近年脚光を浴びている放射光科学技術による美術工芸品調査の専門家などとの親交があるため、常々耳にしていることなのだが、放送に先立ちテレビ局から番組登場予定の品が鑑定のため持ち込まれることもよくあるらしい。
(「奥の細道」と「曾良日記」)
「奥の細道」という作品の内容自体についての尾形さんの深い考察にもひたすら感銘し、啓発されるばかりであった。昭和18年、奥の細道の旅に同行した弟子の曾良による克明な随行記、いわゆる「曾良日記」が発見されたことにより、その日記に記載された諸事実と奥の細道の記述内容とを詳細に比較研究したり、曽良日記に登場する逗留先の当時の地理や歴史関係資料を紐解いたりすることができるようになった。そのおかげで、それまで見えなかった奥の細道の舞台裏が浮かび上がってもきたのだという。
これは後述するロナルド・キーンさんの松尾芭蕉研究にも通じるところなのだが、「奥の細道」は推敲に推敲を重ね、その内容構成と表現体を徹底的に練り上げて完成された芸術作品で、紀行文とはいっても旅先での出来事や見聞した諸事実、さらにはそれらについて吟じた句などをそのまま記述したものではないということが裏付けられたのだという。俳聖芭蕉の遺作ゆえ「奥の細道」に書かれた内容は事実にほかならないと一途に信じてきた研究者らは衝撃を受け、曾良日記の発見当初は、曾良の遺した記述のほうが偽りに違いないとさえ考えられたりもしたらしい。ただ、曾良日記の詳細な検証が進むにつれて、その記述のほうが実は正確なものであると結論づけられるに至ったのだそうである。
一連の奥の細道の旅が終わったあと、5年余もの時間をかけて徹底的な改作や補足修正などが行われ、ようやく完成をみたのが今に伝わる「奥の細道」なのだという。有名な冒頭近くの句、「行く春や鳥啼き魚の目は泪」などは、実際には奥の細道の旅が終わったあとで全体的な構成を考えながら書き加えられたものらしい。また、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という名句などは4回も書き換えられ完成に至ったのだそうで、「山寺や石にしみつく蝉の声」というのが最初の作だったのだという。
なお、事実とは異なる記載がなされている一例として、石巻では豪商に招かれその屋敷に宿泊したと曾良日記にはあるにもかかわらず、道に迷って石巻という集落の外れのうらぶれた宿に辛うじて辿り着き、そこに泊まって翌朝早立ちしたと述べられていることなどが指摘されもした。そんな尾形さんの講演に魅了された私は、文字通りに「目から鱗が落ちる」思いを実感した次第だった。

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