時流遡航

第29回 東日本大震災の深層を見つめて(9)(2012,01,01)

東日本大震災に伴う一連の災害に関しては、「想定内」だったのか、それとも「想定外」だったのかという議論が延々と繰り返されてきた。だが、そもそもそれら両概念の間には明確な境界など存在しているのだろうか。科学の盲信者ほど陥りやすい、そして本質的な科学理論とは一線を画すべき「数値理論絶対視」思考の罠が、この種の問題の奥には潜み息づいているように思われている。いま仮にある国の謀略によって日本国内のどこかの原発が攻撃破壊されたとしてみよう。いったいそれは想定内のことだったと考えるべきなのだろうか、それとも想定外のことだったと考えるべきなのだろうか。そのような事態が生じる可能性は、隕石の直撃を受けてその原発が破壊される可能性よりも大きいとも思われるが、それが想定内だったのか想定外だったのかということになると、明確な判断を下すなど不可能だし、そもそも、そんな議論をすること自体が虚しいと言うほかない。

ギリシャ神話のプロメティウスは人類に火をもたらしたがゆえにゼウスの怒りを買い、永劫の懲罰を被ることになったのだが、その名には「先を見通して行動する者」という意味が込められている。プロメティウスは、先見的な思考と理論とに基づき行動するため未来を切り開く力を持つが、それ故にまた諸々のリスクや悲運にも見舞われやすい存在を象徴している。一方、プロメティウスにはエピメティウスという弟がいるが、その名には「物事が起こったのちに考えて行動する者」といったような意味が込められている。言うなればエピメティウスは後付け理論者で、リスクを負うことは少ないかわりに世の発展にも改革にも貢献することのない、実質的には無能な存在を象徴している。ちなみに述べておくと、パンドーラの箱で知られるパンドーラは、ほかならぬこのエピメティウスの妻である。

ギリシャ神話の中に見られるこれらの対照的な存在は、大自然の中で生きる我々人間というものの内面的な矛盾と、それに伴う悲喜劇の本質を暗黙のうちに物語っている。プロメティウス的に振舞えば、先見の明があったと讃えられる反面、なんと大袈裟なとも嘲笑されたり、なんと無駄なことをと激しく非難されたりすることになる。一方、エピメティウス的に振舞えば、もっともらしい後付け理論、いわゆる結果論を連発しながら、既に生じた事態に関して物知り顔で偉そうな発言をすることはできるが、実際問題としてはそんな言動など何の役にも立ちはしない。

主観的確率と客観的確率

そもそも科学技術における「安全性」とは何なのだろう。安全という概念の本質を考えていくと、一見もっともらしくも思われる「絶対安全」などという思想の幻想性と、相も変わらず繰り返される絶対安全論争の愚とが浮かび上がってくる。予想や予測、さらには特定の事象や技術の安全性評価の根底にあるのは確率の概念である。そして、その確率の概念の奥にはさらに、「過去から現在に至るまでの一連の状況がこれからも続くとするならば」という暗黙の大前提が存在しているのだ。

話を分かりやすくするために、1から6の目を持つサイコロを例にとってみることにしよう。サイコロの各目が出る確率は6分1だとされているが、それは「どの目も同じように出るサイコロがあるとすれば」、すなわち、「どの目も平均して6回に1回の割合で出るサイコロがあるとすれば」という暗黙の大前提があってはじめて成り立つことなのである。そうだとすれば、それは、要するに、「どの目も6分の1の確率で出るサイコロがあるとすれば、どの目が出る確率も6分の1である」と言っているに過ぎない。「人間は人間である」という言い回しに象徴されるこの種の命題は、論理学の世界でトートロジー(同語反復)と呼ばれるものである。現実には、どの目も厳密な意味で6分の1の確率で出るようなサイコロなど作りようがない。立方体を構成する各正方形の面積の僅かな違い、サイコロの重心位置のずれや素材密度の偏り、8個の頂点や12本の辺の微細な状態の相違などを考えると、そんな理想サイコロなどもともと存在するわけがない。それゆえ、サイコロの各目の出る確率は6分の1であるとする考え方は絶対的に正しいわけではないのである。

「どんなサイコロでも各々の目は6分の1の割合で出るものだ」といった類の大前提を無条件に受け入れて展開される確率思考を「数学的確率」あるいは「主観的確率」という。一方、「サイコロというものは、実際に多数回振ってみないかぎりその特性や目の偏りは判らない」とする経験主義的視座に立つ確率思考を「統計的確率」あるいは「客観的確率」という。当然のことだが、自然現象の予測や科学技術の安全性評価、防災システムの構築などは、統計的確率に立脚して進められることが多い。だが、正当かつ客観的に思われがちなこの統計的確率は、過去に起こったことのない事象や、過去にデータのない物事に関する予測については無力に等しいという宿命的な欠陥を持つ。「現在に至るまでの一連の状況がこれからも続くとすれば」という暗黙の前提あってこその話だからである。その意味では、今回東日本沿岸を襲った大地震や大津波による被害が予測できなかったのは当然のことだったのかもしれない。宇宙論の根幹を成す量子論的立場からすれば、「確率ゼロ」の事象だって起こりうる。「火のないところに煙は立つ」のだ。なお、この種の問題についての議論に深い関心のある方は、拙著「確率の悪魔」(工学図書刊)をご参照願いたい。

因果律とは一種の後付け理論

常々科学的論議で重要視される「因果律」には、どれほどの正当性があるのだろう。実を言うと、経験則に立つ因果律というものには、エピメティウス的な後付け理論の要素が極めて濃厚なのである。たとえば、樹からリンゴが落ち、蟻がそれに潰されて死ぬ事象を因果律で説明する場合、どこまでを必然、どこまでを偶然と考えるべきなのだろうか。「そこにリンゴの樹を植えたから」、「偶々強風が吹いたから」、「リンゴの付け根が虫に食われたから」、「枝先が折れたから」、「リンゴの熟れ具合がいつもより早かったから」、「蟻の巣が近くにあったから」、「餌を発見した蟻がその方に向かっていたから」、「蟻が障害物をよけようとしたから」等々、それらの結果が蟻の死に繋がることになろうなど予測しようもないような偶然的要素をいくらでも列挙することができる。多くの場合、因果関係なるものは、結果的事象から時間を遡行して得られる、しかも、人間の主観に基づく便宜的な選択判断によって構成される「後付け理論」にほかならない。

陸前高田から次の被災地の気仙沼へと向かう途中、私は、先見的な予測の難しさや予測理論の限界について、胸中深い思いを馳せらせていた。

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