時流遡航

《時流遡航》夢想愚考――我がこころの旅路(12)(2017,07,15)

(奥の細道――「封人の家」考)
 尾形仂さんやドナルド・キーンさんによる「奥の細道」の考証に触発された私は、自らも、奥の細道に描かれている出来事や情景と、実際に芭蕉と曾良が体験したであろう諸々の状況との違いを検証し、それらをどう評価すべきかを考えてみたくなった。そして、そのために選んだのは、キーンさんの話の中にも登場したような、鳴子から尿前の関を経て封人の家に至り、さらにそこから山刀伐(なたぎり)峠(とうげ)を経て尾花沢に至る一連の道筋だった。
 奥の細道の「尿前の関」の一節には、「大山をのぼって日既に暮れければ、封人の家を見かけて舎(やどり)を求む。三日風雨あれてよしなき山中に逗留す」と記述されている。その文中の封人の家は、重要文化財の指定を受け、現在も山形県最上町堺田に残る旧有路家邸宅であるとされている。悪天候のため、やむなく芭蕉らは三日間この封人の家に滞在し、天候の回復を待っていたわけである。そして、その間に詠まれたのが「蚤虱馬の尿する枕もと」という例の一句だったのだ。蚤、虱、尿といったような、人々がもっとも忌み嫌う対象物を有りのままに句に詠み込み、奥の細道の文章のなかほどに平然と配した芭蕉の俳諧精神の達観ぶりを、芭蕉研究の専門家たちは皆そろって高く評価してもいるようである。
 ところで「大山をのぼって日既に暮れければ」とあるところの「大山をのぼって」とは鳴子から尿前の関を経て堺田に至る中山越えの道をさすのだが、鳴子の町と途中の峠の最高地点との高度差は200メートルくらいのものだから、現実にはそれほどの難路だったとは思われない。水上勉作品の挿絵や装丁画などでも知られる若狭の画家、渡辺淳さんと一緒に、芭蕉一行が中山越えのときに通ったという小深沢の六曲がりの古道を初めて歩いてみた時には、芭蕉の記述を思い起こしながら、こんな道が延々と続いていたらその峠を越えるのは結構大変なことだったろうと想像もしてみた。だが、あとになって地図を見ながらよくよく検証してみると、急な登りのそんな沢道は行程中のごく一部にすぎなかったことが判明したのだった。
 また、問題の一句を素直に読むと、芭蕉と曾良が泊まったのは、掘っ立て小屋か粗末な藁小屋みたいなところで、不潔な小屋の中には蚤や虱がウジャウジャしており、身体中が痒くなって眠るどころの騒ぎではなかったような感じをうける。しかも、同じ小屋の中で飼われている駄馬が枕元でジャージャーと放尿する始末なのだから、とても安眠できるような状況ではなかったろうとも想像したくなる。
(つぶさに確かめると……)
 しかしながら、実際に訪ねて目にした封人の家なるものの佇まいは、句に詠み込まれているそれとはまるで異なるものであった。そもそも、封人の家とは、文字通りに受け取れば、陸前仙台藩領と出羽藩新庄領との国境を守る役人の家のことを意味している。実際の考証では、芭蕉らは新庄領堺田村の当時の村役人を兼ねた庄屋の家、つまり、この旧有路家邸宅に宿泊したのだといわれている。いずれにしろ、仙台領と出羽新庄領とを結ぶ重要な交易路「北羽前街道」の要衝集落なのだから、その地一帯を預かる封人の家がそれほどに粗末なものであったろうはずがない。
 実際に目にしたその家屋は、総茅葺の屋根をもつ建坪81坪(270平方メートル)もの立派な建物であった。ほぼ東西にのびる長方形の建物の北西奥が縁側付き約10畳の畳敷き床の間、その南側にあたる南東奥が12畳半畳敷きの入り座敷の間、入り座敷の間の東側がやはり畳敷き15畳の中座敷、そして、床の間の東側、すなわち中座敷の北側が12畳の板敷き納戸の間になっていた。また、納戸の間と中座敷の間の東側には約18畳の総板敷きの間があって、そのなかほどには大きな囲炉裏が設(しつら)えられていた。ここが当時日常的に使われていた居間だったらしく、囲炉裏にはこの日も赤々と炭火がおこされており、自然に身体が暖まっておのずから心安らぐ感じであった。さらに、入りの座敷、中座敷、囲炉裏のある板敷きの間の南側には通しの大廊下があって、その廊下の入りの座敷に面する箇所の外側に玄関が設けられていた。
 では問題の厩が屋内にあったのかということだが、実際に、立派な造りの厩が3つも設けられていたのである。18畳の板敷き居間の東側には面積15坪(30畳)をゆうに超える大土間があって、そこには炊事用の大竈や水屋(内井戸などのある生活用水場)が昔のままに残されていた。かつて、このような土間は、炊事場、洗い場、各種作業場、物資保存場などとして多様な使い方がなされていたようである。そして、この土間の東側、すなわち家屋の最東端に、4坪(8畳)ほどの厩が1つと3坪(6畳)ほどの厩が2つ並び配されていたのである。
 当時小国と呼ばれていた最上町一帯は中世以来の有名な馬産地で、江戸時代には新庄藩の保護奨励のもとに、武士たちに供する乗用馬を産出していた。この小国地方では牡馬(雄馬)を各地に送り出しており、「小国駒」と呼ばれるそれらの馬は、遠く江戸や越前地方にまで移出され、重用されていたのだという。そのようなわけだから、この厩で飼われていた馬たちは農耕用の駄馬などではなく、我が子のように愛情深く育てられた高級馬であったのだそうだ。芭蕉らの逗留時に何頭の馬が飼われていたのかはわからないが、こざっぱりしたそれら3つの厩舎があれば、すくなくとも5、6頭の馬の収容が可能だったのではないだろうか。
 通常、最奥の床の間や入り座敷の間は使用されておらず、折々街道を通る大名やそれに従う高位の武士たちの休憩や宿泊に供されていたらしい。たまたま居合せたその屋敷の管理人に、芭蕉一行はどの部屋に泊まったのかと訊ねてみると、中座敷だったそうですという返事が戻ってきた。最上の間ではなかったにしても、それに次ぐなかなか立派な畳敷きの座敷だから、蚤や虱がそうそう出たとは思われない。寝具だって、豪奢なものではなかったにしてもそれなりに清潔なものが提供されたと考えるのが自然だろう。馬の尿にいたっては、その音がはっきりと聞こえたかどうかさえ疑問である。中座敷から厩まではすくなくとも六間半(11.7m)はあるから、枕もとで馬が放尿するという状況にはおよそ無縁だったと断言してもよい。
 ともかくも、こうして実際に封人の家跡とされる現場を訪ね、その家の構造を我が目でつぶさに確かめてみた結果、「蚤虱馬の尿する枕もと」と詠まれたその家の状況は事実とはずいぶんと異なっていたらしいことが判明した。中山越えや封人の家についての描写は、いずれもが随分と誇張された表現であることだけは、素人目にも明らかであった。私は、それに続いて「山刀峠越え」の記述内容の考証にとりかかった。

カテゴリー 時流遡航. Bookmark the permalink.