時流遡航

《時流遡航》電脳社会回想録~その光と翳(7)(2013,07,15)

コンピュータ教育やソフトウエア開発面での日本の立ち遅れについて述べてきたが、IT社会の根幹となるコンピュータ言語やプログラミング技術、中核ソフトウエアの重要性などを80年代初頭から十分認識し、その見識をビジネス展開に活用した先駆者が国内に皆無だったわけではない。少なくとも私は、過去において直接に出合い交流を持ったそんな人物らの優れた業績や示唆に満ちた足跡を、ここで2例ほど紹介することができる。

(アクセス社を築きあげた2人)

まだ20歳代の若者だった荒川亨・鎌田富久さんの2人に出合ったのは80年代半ばのことである。その数年前からコンピュータ・プログラミングの世界に没頭していた荒川さんは、在籍中の東京電機大学を84年に中退し、有限会社アクセス社を立ち上げた。そして、当時東大理学部の大学院生で、生涯の盟友となるIT技術研究者の鎌田富久さんと運命的に廻り合った。オペレーションシステムの重要性を熟知していた2人は、将来世界に立ち向かうためには日本独自のDOS開発が必要だと考え、いちはやくそれを実践に移そうした。だが、日本のIT業界はそんなことには全く無関心でビジネスとして成立しそうになかったばかりか、それまで小さなベンチャー企業に過ぎなかったマイクロソフト社のMS―DOSが一気に高性能化して全世界を席捲するに及んでは、最早太刀打ちのしようもなくなった。86年に国産OSとして坂村健東大教授らにより開発されたTORONなども、既に巨大化していたマイクロソフト社の力の前に惨敗の憂き目を見るしかなかった。

DOS開発を断念したアクセス社が急遽方針を転換し、蓄積した基礎技術を活かし独自に開発したのがプログラミン言語のLOGOだった。「ACCESS・LOGO」という商品名のこの言語ソフトは、折からのLOGOブームに乗って数千万円の売り上げを達成し、ブームが去ったあともアクセス社が新たなソフトウエア技術を開発蓄積し、世界に打って出る礎石となった。私が荒川さんや鎌田さんと出合ったのは、彼らが開発したLOGOを介してであった。各種のLOGOを比較研究していた私は、必然的にその開発責任者とコンタクトする立場におかれていたからである。2人とは何度もLOGO談義を重ねたが、未来を見つめ、時代の先端を走る若い彼らの眼はきらきらと輝いていた。LOGOビジネス衰退のあと、彼が目指したのは斬新かつ画期的な通信ソフトの開発だった。

以降、荒川が鋭い嗅覚で斬新なビジネス展開の方針を定め、卓越したプログラミング技術力を持つ鎌田がソフトウエアを開発するという二人三脚のもと、紆余曲折はあったものの、アクセス社は大躍進を遂げた。そして96年には株式会社に改組され、01年には東証マザーズに上場するに至った。アクセス社が開発した各種通信ソフトの中でも世界にその名を知られたのは「ネットフロント(Net・Front)」という通信閲覧ソフトだった。

ネットフロントは携帯電話、ゲーム機、携帯情報端末用インターネット閲覧ソフト市場の8割を占め、特に携帯電話市場ではほぼ100%を独占する世界的なソフトとなった。国内で初めてネットフロントを採用したNTTドコモは、デモンストレーションを受けた当初、同ソフトの能力を信じなかった。憤然とした鎌田さんは僅か1週間でコンパクトな実機用ソフトを完成し、NTT関係者を驚嘆させた。他の技術者の追随を許さない高度なプログラミング構築技術の裏付けがあったからにほかならない。残念なことに、荒川さんは09年に膵臓癌のため他界した。アクセス社を継承した鎌田さんのほうは現在も健在だ。

(ゲームの世界をリードした男)

いま1人は任天堂発展の礎を築いたゲームの神様・横井軍平さんである。私より1歳年長の横井さんとの出合いは文字通り奇縁としか言いようがない。鹿児島県の離島にあった小学校の同学年に石神洋子さんという女の子がいた。彼女は5年生の時に島を離れ家族ごと京都に移住する。それから随分と長い疎遠の時が流れたあと、何かでこちらの消息を知った旧姓石神さんから連絡をもらったのだが、その時、彼女は横井軍平夫人となっていた。

任天堂山内社長の右腕として既に著名なゲーム開発者となっていた横井さんは、まだパソコンが登場したばかりの時代にも拘らず、コンピュータ技術、中でもその中枢を成す高度なソフトウエア・プログラミング技術が未来のゲーム業界の命運を大きく左右することを予見していた。そのため、横井さんは自らコンピュータゲームのプログラミングに没頭する傍ら、洋子夫人を通じて私に若手のコンピュータ技術者を紹介してもらえないかと打診してきたのだった。横井さんと初めて会った当時、任天堂は玩具メーカーとしては知られていたが、「ゲーム機の任天堂」としての名声はまだ世に高まってはいなかった。

未来を鋭く睨む横井さんの直観力や洞察力はさすがに並外れたもので、対談していても感銘を覚えるところが少なくなかった。また、まだ若かったこの人物の潜在能力を瞬時に見抜き、会社の将来を担う存在として重用した山内社長の慧眼にも敬服するばかりだった。ただ、当時の状況柄もあって、人材紹介や技術提携会社の仲介のほうは想像以上に難渋した。知人の企業人にも話を持ち掛けてみたが、玩具メーカーの任天堂と話しただけで即座に一蹴されてしまう有り様だった。それから十数年後のこと、その知人から任天堂を紹介して欲しいとの要請を受けたが、その時にはもう任天堂は一大発展を遂げており、そんな企業など相手にするような状況ではなくなっていた。

ゲーム史を飾る名作品を続々と世に送り出した横井さんには、当初、「枯れた技術の水平思考」という開発理念があった。優れてはいるが時代の推移に伴いその用途に限界がきている諸技術の可能性を斬新な観点から再検討し、過去になかった使い道を発見工夫すると、魅力的なゲームが低コストで開発できるというものだった。ただ、だからと言って、一部で誤解されているように、横井さんが最先端技術を駆使した開発戦略を軽視していたわけではない。その証拠に、任天堂は才能抜群のIT技術者を傘下に集め続け、自社開発のものを含めた最先端技術を駆使してのゲーム制作へと大きく舵を切っていったのだ。

そんな横井さんに悲劇が訪れたのは、96年に任天堂を円満退社し自らの会社を立ち上げた翌年秋のことだった。旅先の石川県で知人の運転する車が軽トラックに追突、その軽トラックへの事故対応をしようとして車外に出たところを後続の車にはねられ他界した。享年56歳であったことを思うと、いまだにその才能の喪失が惜しまれてならない。著名人だったゆえに事故直後からあらぬ噂が飛び交い続け、横井夫人と子息とは長期にわたって人目を避け、息を潜めながら暮らさざるを得なかったらしい。先日も墓参に伺いたい旨を伝えたところだが、その横井軍平さんの御霊はいま京都天龍寺の一角に眠っている。

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