時流遡航

《時流遡航237》哲学の脇道遊行紀――実践的思考法の裏を眺め楽しむ (23)(2020,09,01)

(第一次産業的思索時空の重要性再評価を考える)
 第三次産業的思索時空の世界は近現代において急速に拡大し、またその存在感も絶大なものなりました。一口に第三次産業的思索時空の世界とは言ってみても、その種の時空の広がる分野は多岐多様を極め、諸々の金融業、情報産業、サービス業、旅行運搬業、さらには文化芸術関連事業などと枚挙に暇がありません。あらゆる社会活動においてグローバル化が進んだ状況下においては、ある意味、確たる実体を捉えることの難しいそんな時空が社会の隅々にまで浸透し、それなりの影響力をもたらすのも必然の流れと言えましょう。
 この第三の時空は大なり小なり人間社会のどこにでも見られるわけなのですが、その中核部はやはり大都市に偏在しています。通常、そこに住む人々の多くは、他地域に較べ高度で自由闊達な文化的生活を送っていると自負しているものです。政治経済情報にはじまる重要な社会情報の発信源が殆ど大都市部に置かれていることを思うと、それは当然のことかもしれません。その一方では、第一次産業的思索時空に属する人々のほうも、ともすると自分達は大都市部に較べて文化的生活面で遅れていると考えてしまいがちです。しかし実際その通りなのでしょうか。ここは一度冷静になって状況分析を試みるべきでしょう。
 例えば現代社会を大きく動かす金融業界の株取引分野などにおいては、人工知能をはじめとする無数のコンピュータ群までが絡んで、超高速の対応処理がなされています。またその取引が展開される空間は、人間が直接には体感することのできない一種の仮想空間にほかなりません。そこに属する人々は、その事実を意識しているか否かに拘らず、その特異な時空の様相と推移によって完全に支配されてしまっています。テレビやラジオ、新聞雑誌をはじめとする各種情報産業の場合も情報発信者のほうは常に時間に拘束されていますし、情報受信者の側も情報発信者サイドをコントロールしている時間の流れに無意識のうちに取り込まれてしまっています。そこに広がる空間もまた、極めて人為的なものであったり仮想的なものであったりしています。
サービス業や旅行運搬業に至っては、業者も客も自らの意志に関係なく分刻みの時間に強く拘束されるものですし、彼らを包み込む空間も一見自由度が高く感じられはしますものの、その実は極めて規制力の強いものにならざるをえません。それでは、人間の知的精神の発展を支えているとされるいまひとつの文化芸術関連事業の場合はどうでしょうか。この分野は、思考の自由度を深め、人間ならではの創造性を発揮しつつ独特の表現空間を生み出すという面では極めて有意義ですし、時空の概念自体についての考察をも当該事業の展開に取り入れられるという点でも高く評価することは可能です。しかしその事業分野全体を概観するとき、そこの時空が人間原理によって限定されたものとなっているのは間違いなく、自然界本来の時空の流れと融合したものにはなっておりません。
 人類の進化とか進歩という抽象的概念に基づいて考えるならば、第三次産業的思索時空というものは第二次産業的思索時空以上に高度化した存在であり、自然界を人間の叡智によって人間自らに好都合なように変容させたものであることは確かです。従って、人間原理絶対あるいは人間原理優先の視点に立つならば、たとえ潜在意識下においてのことではあるにしても、第三次産業的思索時空に属する人々が、第一次産業的思索時空に属する人々を見下すことは十分に起こり得ることなのです。しかし、人間の叡智などというものは、大自然の摂理からすれば所詮吹けば飛ぶような代物にすぎません。諸々の自然災害や新型コロナウイルスに象徴される疫病拡散などによって、第三次産業的思索空間依存型の人間社会が大混乱に陥ってしまっている昨今、せめてそれぞれの産業的思索時空を適宜融合したくらいの観点に立って、今後にあるべき社会の展開を考えてみる必要はあるでしょう。
(各次産業的思索時空の融合も)
 新型コロナウイルスへの対抗処置としてZOOMなどの通信システムを用いテレワーク業務やオンライン授業が展開されるようになっていますが、それはまた、これまで当然とされてきた第三次産業的思索時空の様態を再検討する契機にもなっているようです。そこに所属する誰もがそれを必然のものと受け止め、知らず知らずのうちに心身の自由を大きく拘束されていたその思索時空の問題点に多くの人々が気づき始めたからにほかなりません。その結果として、それまで不可欠なものだと信じさえられてきた大都市部での生活を離れ、地方での、それも農林業や漁業が生活の中心となっている自然豊かな地方への移住を試みる人々も増えてきているようです。
換言すれば、それは第三次産業的思索時空から第一次産業的思索時空への回帰を意味しています。もちろん、その前提として、高速大容量通信網の発達という、第二次及び第三次産業的思索時空の産物である技術の集積の結果が存在しているわけですから、この場合は、「回帰」と述べるよりも「融合」という表現を用いたほうが適切かもしれません。ただ、そのような社会の変化の背景に、人為的傾向の強い時間の流れや、人工的な空間の広がりに支配された都会生活の負の部分に目覚めた人々が、大自然本来の時空の包容力に魅せられるようになったという事実があるのは確かでしょう。
 近現代の日本文化の動向を展望してみますと、見かけだけは華やかな中央の文化がそこに属する大手マスコミ組織などの主導によって中央から地方へと一方的に流れ込み、全国の津々浦々まで浸透していくという構造になっています。現実には、中央文化というものの多くは張りぼて的で中身が空虚だったり、海外の真似ごとだったりし、国内深くに根付くことなく一過性のもので終わってしまうことが殆どです。しかし、そういうものを有り難がる風潮が定着し、さらには中央との経済格差の解消が優先される状況のもとにあっては、地方文化を守る人々が自信を喪失するという事態も少なからず生じました。
 冷静に考えてみますと、大自然の恵みと深く結び付いた諸々の地方文化というものは、日本文化の「筋肉」そのものにほかなりません。喩え一個一個は地味なものなのであっても、実はそういう「筋肉」が沢山集まって日本文化全体が構成されているわけなのです。日本の文化の「顔」、すなわちその象徴とも思われる都会的な文化というものは、もしも地方文化という目に見えない「筋肉」がなかったら、現実問題としてたちまち崩壊し雲散霧消してしまいます。そういう意味からしましても、自然と深く繋がる地方文化、すなわち第一次産業的思索時空の存在意義が再評価されはじめていることは、喜ばしいことかもしれません。その思索時空が第二次・第三次産業的なそれらと融合あるいは循環し合うことにより、新たな文化領域の発展形成が促進されることを願う次第です。

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