(医薬経済誌での執筆に至る経緯とその足跡を回顧する)
先日のことだが、久々に初夏の新緑の輝きわたる奥多摩山地を訪ね、多摩川水系の上流域に架かる橋上に立ち止まって、しばし眼下の深い渓谷の流れに眺め入った。若い頃には激しく岩を食む激流を辿ってこの谷筋の最奥部まで遡り、文字通りの源流地にまで足を踏み入れもしたものだったが、老い果てた今のこの身には最早そのための体力も気力も残されてはいなかった。またそれ故にではあったのだろう、橋の上流方向と下流方向とを交互に見渡しながら視線を走らせていると、「久々にこの地点まで足を運ぶことができてよかったなあ。でもまあ、もうこれ以上は無理をせず、この辺りで足を止めておいたほうが賢明かもしれないよな?」と、自制を諭し促すような声が何処からともなく響いてきた。
そして、一連のそんな状況に身を委ね続けているうちに、心中の想いはこのささやかな連載記事執筆の背景とその推移にも重なってきたのである。「時流遡航」というコラム名を掲げ、時の流れを遡りながら諸々の事象の根源にできるかぎり迫ってみようと意気込んでみたまではよかったのだが、非才な身のゆえにその遡航能力におのずから限界が生じたのは紛れもない事実だった。時の流れを遡航する途中で想像を絶するような激流に遭遇し、身を托す舟がバランスを崩して転覆しそうになったり、有無を言わさず下流方向へと押し戻されたりすることもしばしばだった。ただ、折々そんな事態に瀕したにもかかわらず、2010年11月に初稿を執筆させてもらってこのかた、13年余328回にわたって1回の休筆さえもせず拙文を綴り続けることができたのは幸いであった。老いゆく身と共に、社会という名の奔流を遡航する能力がすっかり衰え果てた今となっては、時の流れに身を任せながら、ひたすら下流方向へと己の視線や知覚を転じる「時流下航」の常道へと身を委ねていかざるを得ない。いい加減に己の分際を弁えよということではあるのだろう。
(さまざまな人々との奇縁)
来し方を振り返って見れば、不束なこの身が長年にわたって「時流遡航」の連載執筆に携わらせてもらうようになった経緯には、様々な人々との奇縁をもたらしてくれた不可思議な歳月の差配が深く絡んでいるようにも思われる。まだ若かった時代、大学で数理科学やコンピュータサイエンスの研究に携わっていた愚身は、ある年齢に到達した段階でフリーランスへと転身した。研究生活を送っていた頃から、『ビクトリアン・インベンション』(のちに『図説創造の魔術師たち』と改題して再刊)のような科学系書籍の翻訳や、かつての「科学朝日」誌をはじめとする各種科学雑誌での記事執筆には携わっていたが、社会的分野のテーマについて筆を執るような機会は殆どなかった。だが、フリーランスになった直後に、当時の週刊朝日編集長穴吹史士氏からたまたま声を掛けられ、一時期、同誌上において『怪奇十三面章』という、何とも怪しげなタイトルの連載コラム執筆を請負うことになった。端的に言えば、身の程知らずの不良中年ライターへと変身を遂げたというわけであった。
さらにまた、フリーランスの身になってからというもの、生来の放浪癖を剥き出しにしながら徹底した貧乏漂泊の旅の実践に奔走し、国内各地を隅々まで訪ね廻っては様々な人々との出遇いや珍事との遭遇を重ねることになった。そのなかでも、若狭大飯町在住の画家渡辺淳氏や同地出身の作家水上勉先生との運命的な廻り合いとそれに続く親交の数々は、何物にも代え難いものとなった。そして、それら一連の数奇な経験談などを紀行文として執筆するうちに、そのうちのひとつ『佐分利谷の奇遇』(自由国民社刊の拙著『星闇の旅路』に収録)が、90年代半ばに第2回奥の細道文学賞の対象作品となる幸運に恵まれた。
その3年後の98年、前述した朝日新聞社の穴吹史士氏がウエッブ上にAIC(アサヒ・インターネット・キャスター)というコーナーを開設したのに伴い、同氏発案の『マセマティック放浪記』というタイトルのもと、以後10年程にわたって毎週のように連載の筆を執らされる羽目になった。拙著『ある奇人の生涯』(木耳社)などはその一連の連載記事の一部が書籍化されたものである。またそんな流れの中で、今度は、穴吹氏の大学の先輩で当時「選択」誌の編集制作統括責任者を務めていた伊藤光彦氏を紹介されることになり、05年から同誌において、無署名記事を毎月のように執筆させられることになった。科学、教育、旅、文化芸術の分野が愚身の担当であったが、独特の鋭さと厳しさを求められる選択誌の記事執筆は容易ではなく、しかも時には月間2~3本の原稿を要請される事態もあって、それへの対応は並大抵のことではなかった。伊藤氏が退職したあと、後継の編集長となったのが大学の後輩でもある恵志泰成氏で、のちに同氏が選択誌編集長の座を辞するまで、微力ながらも蔭でその仕事を支えるべく、懸命に拙い筆を執り続けたものである。
(そして医薬経済誌と廻り合う)
選択誌での無署名記事の執筆は10年代半ばまで続けたが、その間に恵志泰成氏のほうは同誌の編集長を退き、自らが経営者となって出版企画会社を立ち上げた。そしてその直後に恵志氏を介して紹介されたのが、現在の医薬経済誌発行人で当時はその編集長だった藤田貴也氏であった。医学や薬学の世界にはおよそ無縁な身であったがゆえに、全体的誌面構成が選択誌と似かよっていたとはいえ、お門違いの本誌で筆を執ることには躊躇いを覚えもした。だが、医薬関係に拘ることなく、どんなテーマでも自由に筆を揮ってよいとの望外な配慮を賜ることとなり、それではということで「時流遡航」というコラム名を自ら提案し、諒承を得たような次第だった。最初のテーマは「危機に瀕する日本の高等教育」(全8回)、続いて「先端光科学の世界を訪ねて」(全12回)、それから「東日本大震災の深層を見つめて」(全14回)、さらには「原子力発電の根底を探る」(全12回)といった具合に拙筆を運ばせてもらいながら、当初の2年間ほどをやりくりさせてもらったのだった。
そしてまた、その間に編集長が森下正章氏に代わり、同氏とは以後10年余の長きにわたって親交を結びつつ、何かと記事執筆上の重要な示唆を賜ったりもしながら、現在に至ったようなわけではある。だが過日、その森下氏から、自分は6月で編集長を退き、7月からは新編集長のもと、本誌の紙面構成も編集体制も大きく変わるとの通告を受けた。時代は移り、読者層もさらには表現体そのものも大きく変容し、今更この愚身の長舌な駄文などに関心を抱くような人もう皆無に近いというのが、偽らぬ実態ではあるのだろう。今後とも人知れず世の片隅でささやかに戯言を綴り続けるつもりではあるが、ここは身の引きどころと自覚したほうがよかろうと悟るに至った次第でもある。かのダグラス・マッカーサーが連合軍最高司令官を辞し、日本を去る際に残した有名な言葉にあやかれば、「老兵」ならぬ「老筆」は唯去りゆくのみ――というわけである。読者の皆様、そして森下編集長をはじめとする編集部の皆様、長年お付き合いくださり誠に有り難うございました。感謝あるのみです。