時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――その概観考察(15)(2018,08,01)

( 言語やそれに基づく諸理論の背景を考える)
 バートランド・ラッセルの愛弟子だったヴィトゲンシュタインは極めて優れた数学的才能の持ち主だったのだそうですが、数学の研究ではなく言語学研究の道へと進みました。そしてひたすら独創的な研究を積み重ね、偉大な言語学者として後世にその名を残すようになったのです。むろん、ヴィトゲンシュタインもまたピアジェ同様に哲学者だったと考えてもらったほうがよいでしょう。言語の本質というものを深く探究しながら、思考の意義やその構造と機能を極力解明していくことが哲学の役目だとしたその思想は、論理実証主義や分析哲学をはじめとする20世紀の哲学体系全般に大きな影響をもたらしました。
 そんな彼は、その著作の中で、「哲学者らが互いに挨拶を交わし合う場合などには、『どうか、ごゆっくりなさってください』とさりげなく促すような言葉を吐くようにしたほうがよいだろう」という趣旨のことを述べたりしています。これだけでは、その言葉の意図するところを的確に汲み取るのはちょっと難しいのですが、それについての彼の説明を読むと、「なるほどな」と納得させられるところが少なくありません。
 人間というものがそれまでの生き方やこの世界についての物の見方を大きく転換するためには、それまで身につけてきた思考の根元、すなわち、自らの人生観や信条、価値判断などの根底的基準となっている「基礎概念」やその「定義」を変更しなければならない――敢えてIT全盛の今風の表現に譬えるなら、現在の思考用プログラミング言語の初期設定をリセットし、新たな言語体系の定義と構築から始めてゆっくり着実に進まなければならないというわけなのです。とくに哲学者などがそのような状況に直面した場合には、周辺の雰囲気に煽られて急ぎ慌てたり、表面的にはもっともらしい巧みな言葉に誘い込まれその術中には嵌ったりしてはならないと考えてもいたようです。
絶対解などこにもない迷路だらけの試行錯誤の道程を辿りながら、ある時は思い切って元の地点まで戻って出直し、ある時は不帰を覚悟で枝道深くに分け入り、またある時は先々その道が本道となるように慎重に思考の鉈を揮いながら未踏の原野を切り開く――そんな、どこか泥臭くさえある強靭な精神力こそが哲学の道には不可欠なのだと言い遺したかったに相違ありません。「寄りかかり支えられるような存在なしに、どこまで自力で立ち続けておられるかを我々は試される。哲学的思考というものは常に紆余曲折を繰り返しながら進み広がるものである」というその言葉が総てを物語ってもいるのでしょう。
 哲学者ではない我われ庶民は、日々の生活に追い立てられることもあって、ヴィトゲンシュタインの言葉に示唆されている通りに物事をゆっくりそして深く考え続ける時間など持ち合わせてはおりません。ただ、そうは言っても、日常生活の中で当然至極だとされている事柄の適否を再検討してみたり、知らず知らずのうちに盲信させられてしまっている理論・理念・規範などの正当性を検証してみたりするための知恵や手段だけは最小限身につけておいたほうがよいでしょう。お互い無知なるがゆえにこそ、「哲学」すなわち諸々の事象の裏を覗き見て自らの過信や誤信を修正する術が欠かせないというわけなのです。
(八手の葉が物語る理論の本質)
 話が少々日常離れしてきてしまいましたから、哲学の脇道遊行の精神に立ち戻り、ちょっとした実体験談を引き合いに出しながら、理論というものの裏側を勝手気ままに覗き見してみることにしましょう。
 もう20年ほど前の夏のことですが、特別講義のため上野にある芸術系大学に出向いた折、予定よりすこし早目に着いたので時間つぶしに上野公園をぶらついていました。すると、園内の片隅に八手の樹が生えているのを見つけたので、何気なく近づいて子葉の数をかぞえてみたのです。ところが、なんと9枚もあるではありませんか。まさかそんな?――と思いながら別の葉を調べてみるとやはり9枚の子葉があったのです。なおも我が目を疑いながら手当たり次第に子葉の数をチェックしていくうちに、意外なことが判明してきたのでした。ほとんどの葉は子葉が7枚か9枚で、それらの葉のなかに、成長途中のものらしい3枚あるいは5枚の子葉をもつものが一定割合で混じっていたのです。そして、驚いたことに、8枚の子葉をもつ八手の葉など1枚も見当たりはしませんでした。
 どうやら、八手の葉は初め先端が3つに分かれたあと、外側の両子葉が各々2枚ずつに分かれて計5枚の子葉をもつ葉となり、続いて左右両端の子葉が2枚ずつに分かれて7枚の子葉をもつものへと成長するらしいのです。そしてさらに7枚の子葉の両端が各々2分化し、9枚の子葉をもつ「八手の葉」となるようなのです。これでは「看板に偽りあり」もいいところで、八手の葉の団扇がトレードマークの天狗様も真っ青の事態だと言ってよいでしょう。いや、案外、天狗様のほうはとっくにその事実をご存じで、今更よけいなことを騒ぎ立てるんじゃないと、苦虫を噛み潰したような顔をしておられるかもしれません。
 7と9の平均値は8だから、この植物を「七手」でも「九手」でもなく「八手」と呼ぶようになったのは、便宜上やむをえないことだったのかもしれません。また日本では古来「八」という数字が全方位を表す縁起のよい数だとされてきたことなども、そんな呼称が定着した理由のひとつではあったのでしょう。しかし、「八手」という呼称がその植物の実像に正しく迫るための観察眼を曇らせ、観念上の虚像を本物の像だと錯覚させてしまうとなると、話は笑いごとではすまされなくなってくる気もするのです。
 実を言うと、もともと理論とはこの「八手」という呼称のようなもので、ある一群の事柄の全体像を平均的にはよく表していますが、個々の事柄には必ずしも当てはまってはいないのです。換言すれば、理論というものは、個々の事柄のもつ極端に偏った特性を捨て、事柄全体にほどほどに当てはまる一般的な特徴や性質を「法則」として纏めあげたものにほかなりません。しかも、このようにして導かれた大小様々な理論は、相互に結びつき多重に積み重ねられてさらに大きな理論を構成していくことになるのです。したがって、理論が肥大化していくにつれて、見かけ上はどんなに立派でも現実とはどんどんかけ離れたものになっていくことは避けられません。そして、そのような理論が盲信的あるは意図的に社会政策や生産活動に適用されると、目に見えない形で大きな不利益を被るのは我われ一般の庶民なのです。肥大化した理論に疑問を抱いたとき、その欺瞞を見抜く唯一の手段は、自らの目を信じて理論の原点へと立ち戻ることでしょう。7枚か9枚の子葉をもつものしかない「八手」の実像を見据えて、その呼称の表と裏それぞれのもつ意味を深く考えてみることが不可欠になってくるのです。

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